『アリラン』 『SHAME―シェイム―』 試写

試写室日記

本日は試写を2本。

『アリラン』 キム・ギドク

キム・ギドクはなぜ『悲夢』以後、沈黙してしまったのか。その理由はこの『アリラン』で明らかになる。『悲夢』の撮影中に女優が危うく命を落としかける事故が発生した。その事故で衝撃を受けたことをきっかけに、国際的な名声と国内での低い評価のギャップ、彼のもとを去った映画仲間の裏切りなどが重くのしかかり、作品が撮れなくなった。この映画では、そんなギドクが徹底的に自分(第二のギドク、第三のギドク)と向き合う。

ギドクは大好きな監督であり、これまで観た作品のなかでいいと思えなかったのは『悲夢』だけだが、この『アリラン』はしんどかった。ギドクのすごさは、言葉に頼ることなく、外部と内部、見えるものと見えないもの、向こうとこちらといった境界や象徴的な表現を駆使して、独自の空間を構築し、贖罪や浄化、喪失の痛みや解放などを描き出してきたところにある。


ところがこの映画では喋りまくる。そして言葉を費やせば費やすほど、ギドクの本質から遠ざかっていく。彼のなかにたまってしまった言葉という膿を出し切らないと、映像言語がよみがえらないということなのか。

『SHAME―シェイム―』 スティーヴ・マックィーン

往年の大スターと同じ名前を持つイギリスの新鋭監督がセックス依存症の男の日常を赤裸々に描き出した挑発的な作品。ミシェル・ウエルベックの『素粒子』が好きな人はこの映画も気に入ると思う。

ウエルベックがフランス人の視点からアメリカのセックス文化を観察していたように、マックィーンもイギリス人の視点から見ている。だから、ニューヨークを舞台にしていても、アメリカ人やニューヨーカーが描くニューヨークとは違う。詳しいことはいずれまた。