『スーパー・チューズデー ~正義を売った日~』 『オレンジと太陽』 『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』 試写

試写室日記

本日は試写を3本。

『スーパー・チューズデー ~正義を売った日~』 ジョージ・クルーニー

ジョージ・クルーニーにとって4作目の監督作品。振り返ってみると、初監督作品の『コンフェッション』(02)から『グッドナイト&グッドラック』(05)、『かけひきは、恋のはじまり』(08)を経てこの『スーパー・チューズデー』(11)まで、3年ごとに監督作を発表していることになる。

筆者のサイトの方にアップしてあるジョージ・クルーニー論のタイトルは「優れたバランス感覚を備えたクレバーな映画人」だった。俳優としての演技の幅を着実に広げ、プロデューサーもやり、南スーダンへの支援などの人道的な活動も行いながら、定期的に監督業もこなすというのは、バランス感覚のあらわれなのかと思いたくなるところだが、実際にはそこまで計画的というわけではないようだ。

『スーパー・チューズデー』の企画は、2007年から製作の準備が開始され、2008年には撮影に入る予定だったが、タイミングが悪いということで延期することになった。プレスにはクルーニーのこんな説明がある。「ちょうどその頃にオバマが大統領に選出されて、アメリカ中が希望にあふれていた。誰もがハッピーで楽観的になっているときに、こういうシニカルな映画を撮るなんて間が悪すぎるよね。でも1年もしないうちに人々が再びシニカルになり始めたから、そろそろ製作を始めてもいい頃だと思ったんだ」


元選挙公報マンの劇作家ボー・ウィリモンが実体験をもとに書いた戯曲「Farragut North」を膨らませた映画は、キャスティングがたまらない。筆者の好みの俳優がずらりと顔をそろえている。

民主党の大統領候補になるべく予備選に立候補した州知事がジョージ・クルーニー、彼に心酔し、選挙キャンペーンを牽引する主人公の広報官がライアン・ゴズリング、選挙参謀がフィリップ・シーモア・ホフマン、ライバル候補である上院議員を支える選挙参謀がポール・ジアマッティ、スクープのためなら女の武器も使いかねない記者がマリサ・トメイ、ゴズリングと親密な関係になる選挙スタッフがエヴァン・レイチェル・ウッド、予備選の勝敗の鍵を握る上院議員にジェフリー・ライト。

この登場人物たちの野心や秘密が複雑に絡み合い、高邁な理想が崩れていく。その巧妙な駆け引きと人格の変貌が見所。ちなみにクルーニーが原作戯曲のタイトルを変更してつけた映画の原題「The Ides of March」はジュリアス・シーザーが暗殺されたローマ暦の3月15日を意味している。

『オレンジと太陽』 ジム・ローチ

ケン・ローチを父に持つジム・ローチ監督の劇映画デビュー作としても注目の作品だが、まずは映画の題材になっている実話に驚愕させられる。

イギリスが19世紀から1970年まで、施設に預けられた子供たちを大量にオーストラリアに送っていた。親の許可も得ないまま移民させられた子供の数は13万人にものぼり、過酷な労働を強いられたり、虐待を受けていたという。

『オレンジと太陽』は、偶然の出会いから闇に葬られていた“児童移民”の調査に乗り出し、引き裂かれた家族の再会に尽力し、真実を明らかにした実在の女性マーガレット・ハンフリーズの物語だ。映画ではそのマーガレットをエミリー・ワトソンが演じている。

この映画を観るうえで、児童移民の問題に対する両国政府の対応について知っておいても損はない。オーストラリアのケヴィン・ラッド首相とイギリスのゴードン・ブラウン首相は、この映画の製作および撮影が進む2009年11月と2010年2月にそれぞれに正式な謝罪を行った。

そこでもしこの映画が、児童移民の問題を告発するような内容になっていたとしたら、その意味は半減していただろう。だが、そうではない。マーガレットが見知らぬ女性から「私が誰なのか調べて欲しい」と頼まれるところから物語が始まるように、主人公の目を通して故郷を喪失した元児童移民のアイデンティティが掘り下げられていく。問題が完全に公のものになったことで、この映画の真価がより明確になるといえる。

▼両国首相の謝罪、元児童移民や彼らの家族の反応を伝えるニュース

エミリー・ワトソンはマーガレットを演じるにあたってあえて彼女には会わなかった。マーガレットの方も脚本に目を通したあとは映画製作と距離を置き、撮影現場にも来なかったという。

▼マーガレット・ハンフリーズとジム・ローチとエミリー・ワトソンのインタビュー

『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』 フィリダ・ロイド

マーガレット・ハンフリーズの物語のあとにマーガレット・サッチャーの物語を観るのはまずかったかもしれない。彼女たちの物語には共通点がある。どちらのマーガレットも自分の使命を果たすために家庭生活や家族との関係を犠牲にしなければならなかった。

しかし、この映画のマーガレット・サッチャーには、良くも悪くも世界を決定的に変えた政治家としての存在感やオーラというものを感じない(「サッチャリズムとイギリス映画――社会の急激な変化と映画の強度の関係」)。メリル・ストリープに問題があるわけではない。彼女の演技は素晴しいが、彼女を取り巻く世界の表現が貧弱なので、せめぎ合いが伝わらない。

それでも、認知症を患った晩年のサッチャーの心の内に去来するものを描いているのだから、という言い訳ができるかもしれない。プレスには脚本を手がけたアビ・モーガンのこんな言葉がある。「私は、王となった人間が権力を失うのはどういうことなのかを追求してみたいと思いました」。であるなら、「王となった人間」の部分をまずしっかり描く必要がある。