ルカ・グァダニーノ 『ミラノ、愛に生きる』 レビュー
グローバリゼーションに呑み込まれていく一族、自然のなかで心と身体を解き放つヒロイン
繊維業で成功を収めた富豪のレッキ一族に嫁ぎ、成人した三人の子供の母親として何不自由ない生活を送るエンマ。そんなヒロインが、息子の友人と恋に落ち、本当の自分に目覚めていく。ルカ・グァダニーノ監督のイタリア映画『ミラノ、愛に生きる』は、表面的にはメロドラマだが、そのありがちな展開のなかで社会の変化や個人のアイデンティティが実に巧妙に掘り下げられていく。
物語は雪化粧した冬のミラノ、エンマの義父である一族の家長の誕生日を祝うパーティの場面から始まる。そこに漂う格式ばった雰囲気は、一族の揺るぎない秩序を象徴している。だが、家族のやりとりには変化の兆しが見える。しかもその兆しは、かすかな不協和音を響かせている。
たとえば、高齢の家長がその席で自分の後継者を指名することは不思議なことではない。しかし彼は、息子でエンマの夫であるタンクレディだけではなく、孫のエドも指名する。それがぎこちない空気を醸し出す。また、この家長は、毎年、孫娘のベッタから贈られる絵を楽しみにしていたのだが、彼女が写真に転向したことを知って落胆を隠すことができない。そして、パーティを取り仕切っていたエンマが、長男エドの友人でシェフのアントニオに出会う。
すべてはささいな出来事のように見えるが、季節が初夏から夏に変わると、それらが一族の秩序すら揺るがす変化の兆しであったことが明らかになる。
冬のパーティにボーイフレンドを同伴していたベッタは、留学先のロンドンにおける生活のなかで自分がレズビアンであることを受け入れ、新たな関係を築いている。タンクレディは、インド系アメリカ人の実業家クベルキアンとの間で、会社の売却交渉を進めている。アントニオと再会したエンマは、彼の料理に官能的な喜びを感じ、情事にのめり込んでいく。
そこで注目したいのが、グァダニーノ監督のアイデンティティに対する独自の視点と表現だ。この映画では、国や言語、階級、セクシュアリティ、グローバリゼーション、料理、自然といった要素を通して、登場人物たちのアイデンティティの違いが描き出される。なかでも特に興味深いのが、一族の会社を買収しようとするクベルキアンとエンマという二人のディアスポラのコントラストだ。
クベルキアンはインド系としてのルーツや文化におそらくはまったく関心がない。彼は、経済活動にプラスになれば戦争すら肯定するグローバリゼーションの象徴のような存在であり、実際、会社の買収後は不動産などにビジネスを広げていこうと考えている。これまでイタリアの歴史とともに歩んできた一族の会社は、まさしくグローバリゼーションに呑み込まれようとしている。
一方、エンマの場合はもっと複雑だ。共産主義時代のロシアからイタリアに来た彼女は、過去を捨ててイタリア人に成りきる選択をした。しかし、過去を完全に葬り去ったわけではない。彼女はエドとだけはロシア語で話し、ロシアのスープ料理を通して特別な絆を培ってきた。そんな彼女がアントニオに料理に官能的な喜びを感じることには深い意味がある。料理に対する認識が変わることは、母親と息子と友人の関係をより複雑なものにするからだ。
では、グローバリゼーションの波が押し寄せる状況で、彼女はどんなアイデンティティを見出すのか。考えられるのは、再びロシア人に目覚めるということだが、この映画はそんな平凡な結末には至らない。彼女がサンレモでアントニオに再会する場面はなかなか暗示的だ。彼女は、玉葱ドームが印象的なロシア教会を見ていて、その脇を歩いていくアントニオに気づき、その後を追う。
エンマはアントニオとの情熱的な関係を通して、ロシアではなく、料理の素材を育む自然に目覚め、心と身体を解き放つ。グローバリゼーションと歴史や文化という図式は珍しくないが、このような構成で自然を対峙させる視点は新鮮だ。それをエコフェミニズムというのは大袈裟かもしれないが、メロドラマとは次元の異なる世界を切り拓いていることは間違いない。
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