ニコラウス・ゲイハルター 『眠れぬ夜の仕事図鑑』 レビュー
私たちは豊かで自由なのか、それとも生の奴隷として管理されているのか
ドキュメンタリー作家ニコラウス・ゲイハルターは、普段目にすることのない領域に光をあてることによって、私たちが生きているのがどんな世界なのかを浮き彫りにしてみせる。
『いのちの食べかた』で工業化された食糧生産の実態に迫った彼が、新作で注目するのは“夜に活動する人々”だ。ヨーロッパ十カ国を巡り、切り取られた夜の風景には、例によってナレーションや説明はなく、私たちの想像力を刺激する。
この映画でまず印象に残るのは、治安に関わる職業だ。冒頭と終盤には国境警備の模様が配置され、街中の監視や警察官の訓練の現場、さらにはロマ(ジプシー)の強制立ち退きや難民申請を却下された外国人の強制送還の執行にも目が向けられる。
そこから浮かび上がるのは、ひとつの巨大な要塞と化したヨーロッパの姿であり、内と外に振り分けられる人々の現実だ。
ではその要塞はなにを守っているのか。新生児医師から自殺防止ホットラインの相談員、老人ホームの介護職員や火葬場職員の現場に至る人の一生の間には、売春宿や盛大なビール祭り、レイヴパーティーが象徴する快楽がある。
戦争や弾圧の恐怖に怯えることもなく、医療制度が充実した世界は、楽園のように見えると同時に、生権力という言葉も思い出させる。現代の権力は、従わないものに死をもたらすのではなく、医療行為や社会保障制度、監視を通して身体や生命を管理する。
押井守監督は『スカイ・クロラ』のプレスのなかでこんなことを語っていた。
「この国には今、飢餓も、革命も、戦争もありません。衣食住に困らず、多くの人が天寿を全うするまで生きてゆける社会を、我々は手に入れました。しかし、裏を返せば、それはとても辛いことなのではないか――と思うのです。(中略)物質的には豊かだけれど、今、この国に生きる人々の心の中には、荒涼とした精神的焦土が広がっているように思えてなりません」
ゲイハルターが炙り出すヨーロッパは、現在の日本の姿でもある。果たして私たちは自由なのか、それとも死を克服すべき敵とみなすような社会のなかで生(性)の奴隷となっているのか。その解釈は私たち観客に委ねられている。
(初出:月刊「宝島」2012年8月号、若干の加筆)