ジョー・コーニッシュ 『アタック・ザ・ブロック』 レビュー
エイリアンというプリズムを通して描き出される公共団地の世界
ジョー・コーニッシュ監督の『アタック・ザ・ブロック』は、仕事を終えた見習い看護師のサムが、帰宅途中に暗い夜道でストリート・キッズたちに囲まれるところから始まる。彼女は恐怖のあまり、財布や指輪を差し出すが、そのとき明るく光る隕石が駐車中の車に激突する。サムはその隙に逃げ出し、落下物の正体を確かめようとしたキッズの前には、エイリアンが現われる。
この映画を観ながら筆者が思い出していたのは、初期のスピルバーグ作品だ。拙著『サバービアの憂鬱』のなかで、スピルバーグについて書いた第10章には、「郊外住宅地の夜空に飛来するUFO」というタイトルがついているが、“UFO”が“郊外住宅地”に飛来するのは偶然ではない。
郊外育ちのスピルバーグは、タンクローリーやサメ、UFOやエイリアンといったガジェットというプリズムを通すことによって、郊外の現実や郊外居住者の心理を巧みに描き出してみせた。
『アタック・ザ・ブロック』に登場するストリート・キッズたちは南ロンドンの低所得者向けの公共団地に暮らしているが、その団地の周辺に次々と隕石が落下してきて、エイリアンが暴れ出すのも偶然ではない。
コーニッシュ監督はプレスのインタビューのなかで、「『激突!』(71)や一作目の『ターミネーター』(84)など、好きな監督の第一作目の映画から大きなインスピレーションを得た」と語っている。確かに彼は、初期スピルバーグ作品のなかでも『激突!』をよく研究している。
郊外の自宅から車で仕事に向かう『激突!』の主人公は、煙を吐き出し騒音を撒き散らすタンクローリーに嫌悪感をもよおし、対抗心を起こしてしまう。ところが、世間の常識が通用しない相手だとわかると、途端に萎縮し、恐怖を覚える。やがて誰にも頼れないと覚悟を決めた彼は、必死にサバイバルを繰り広げるうちに、これまでにない高揚感を覚えている。
『アタック・ザ・ブロック』のキッズたちも、最初に遭遇したエイリアンをあっさり退治したときには、面白がっている。だが、その後に次々を現われるエイリアンの大きさと凶暴性を目の当たりにして、青ざめて逃げ出す。しかしやがて追い詰められ、必死の反撃に転じる。そんな展開のなかで、団地の生活やキッズの感情が巧みに描き出されていく。
共通点はそれだけではない。『激突!』でタンクローリーの脅威にさらされるのは主人公(と観客)だけで、他の人々にとってはありふれたタンクローリーに過ぎない。それが、ラストシーンに漂う独特の余韻に繋がっていく。
『アタック・ザ・ブロック』では、キッズたちから逃げたサムが警察に通報したり、エイリアンから逃げるキッズたちが、団地を仕切るギャングとトラブルを起こすことで、警察やギャングも絡んでくるが、彼らは何が起こっているのかを正確には把握していない。それは、後半で明らかになるある理由で、エイリアンがキッズだけを執拗に追い続けるからでもある。
エイリアンが、人類や地球の脅威になるのではなく、団地の限られた人々の脅威になり、彼らを変え、結束を生み出していくところに、この映画の面白さと魅力がある。