アスガー・ファルハディ 『別離』 レビュー
『別離』とイランのいま
イランには厳しい検閲制度があり、映画人は大きな犠牲を強いられている。たとえば、モフセン・マフマルバフはイランを離れ、海外に拠点を置いている。バフマン・ゴバディは無許可で『ペルシャ猫を誰も知らない』(09)を撮ったため、イランを離れざるをえなくなった。アッバス・キアロスタミは国外で撮った『トスカーナの贋作』(10)で劇映画に復帰した。ジャファール・パナヒは2010年に反政府的な活動を理由に逮捕され、有罪を宣告された。
そんな状況のなかで制約を乗り越え、世界的な評価を獲得しているのがアスガー・ファルハディだ。彼の最新作『別離』(11)は、ベルリン国際映画祭の主要三部門、ゴールデン・グローブ賞とアカデミー賞の最優秀外国語映画賞を筆頭に受賞を重ね、世界中から絶賛されている。
だが、ファルハディがそんな成功を収めるまでの道程も決して平坦だったわけではない。ベルリン国際映画祭で最優秀監督賞(銀熊賞)に輝いた前作『彼女が消えた浜辺』(09)は、検閲で足止めされ、国内で上映する許可がなかなか下りなかった。
さらに映画組合協会が主催した映画賞の授賞式における彼のスピーチが問題になった。そのなかでマフマルバフの帰国やパナヒの映画界への復帰を求めたことが当局に不適切な発言とみなされ、すでに撮影に入っていた『別離』の制作許可が取り消されることになったのだ。結局、その決定はファルハディの謝罪によって撤回されたと伝えられたが、具体的にどのようなやりとりがあったのかは定かではない。
■■普遍的物語に見るイランの現実■■
ファルハディの作品は、基本的には家族の物語であり、どこを舞台にしても成り立つような普遍性を備えているように見える。しかしそこには、イラン社会の現実を浮き彫りにするような視点と表現が巧妙に埋め込まれている。その鍵を握るのは、ふたつの階級の間にある深い溝だ。
それを明確にするために、ここではまずイラン・イスラム革命とイラン・イラク戦争の後、ラフサンジャーニーとハータミーというふたりの大統領の時代に、階級の立場がどう変化していたのかを振り返っておきたい。ハミッド・ダバシの『イラン、背反する民の歴史』では、それが以下のようにまとめられている。
「かたや戦後の復興経済とそれに伴って生まれた、石油経済に支えられた見せかけの富に頼る中産階級を擁護し(一九八九~九七年)、かたや同階級の社会的自由の確保を目指していた(一九九七~二〇〇五年)――だがどちらも有権者の大多数に目を向けていなかった」
その大多数とは、貧困にあえぐ都市部・農村部の厖大な下層民のことを意味している。そして、階級をめぐる不均衡が2005年6月の大統領選にはっきりと表われることになる。ダバシは同書のなかで、第一次選で最も多くの票を獲得したふたりの候補者のことを以下のように表現している。
「彼らはこの国の階級区分を最も基本的かつありのままに体現していた。上昇の見込みがある中流階級、国際的ヤッピー、ヨーロッパ中心主義の有権者はアリー・アクバル・ハーシェミー・ラフサンジャーニーを選択し、いっぽう貧困層、公民権を奪われた者、国家社会助成金に依存している者、より信心深い者たちはマフムード・アフマディネジャドに投票した」
ご存知のように勝利を収めたのは、保守・強硬派のアフマディネジャドで、彼は2009年の大統領選でも再選を果たして現在に至っている。こうした政治や社会の状況とファルハディの作品は深く結びついているように見える。ハータミー時代に作られたデビュー作の『Dancing in the Dust (Raghs dar ghobar)』(03)と二作目の『Beautiful City (Shah-re ziba)』(04)では、貧困層に目が向けられている。
これに対して、アフマディネジャド時代以後の『Fireworks Wednesday (Chaharshanbe-soori)』(06)、『彼女が消えた浜辺』、『別離』では、大統領の交代で微妙な立場に立たされることになった中流階級の家族が中心に据えられている。しかも、単に中流の世界を描くだけではなく、そこには三部作といってもいいようなもうひとつの重要な共通点がある。それは〝他者〟の存在を通して独自の世界を切り拓いているということだ。
■■ファルハディ作品における“他者”■■
『Fireworks Wednesday』では、ある中流階級の夫婦の姿が、掃除代行の仕事でたまたまその日に彼らのもとに派遣された若い女性ルーヒの視点から描き出される。夫婦はオートロックを備えたマンションで豊かな生活を送っているが、関係はこじれている。妻は夫と隣人の独身女性との関係を疑い、結婚を間近に控えたルーヒはそんな夫婦の争いに巻き込まれていく。
『彼女が消えた浜辺』では、大学時代の友人たちが家族連れで避暑地を訪れ、週末を過ごす。この小旅行を仕切る女性セピデーは、子供が通う保育園の先生であるエリも招待していた。ドイツに暮らし、最近離婚して帰郷していた男友達のアーマドに彼女を紹介するためだ。アーマドと他のメンバーたちはエリに好印象を持ち、すんなりと受け入れる。しかしその翌日、彼女が姿を消してしまったとき、一同はエリという名前以外ほとんど何も知らなかったことに気づき、動揺が広がっていく。
ファルハディがこの二作品で炙り出すのは、中流階級を形成している夫婦の関係の脆弱さだ。『Fireworks Wednesday』では、割れた窓ガラスや夫の手に巻かれた包帯が、最初から暴力を暗示している。力ではどうにもならない妻は、姑息な手段をとる。中流の女性たちはカラフルなスカーフを身につけるのに対して、ルーヒは全身を覆う黒いチャドルを着用している。そこで彼女のチャドルを勝手に拝借し、夫の職場の周辺をうろつき、スパイしようとする。それに気づいた夫は自制心を失い、妻に襲いかかる。
『彼女が消えた浜辺』では、逆に中流の夫婦たちがエリという他者を見る視点が重要になる。イランには〝グッチ革命家〟と呼ばれる人たちがいる。ダバシは「グッチのバッグやブランド物のジーンズ、色っぽいスカーフとそれに合う大きめのサングラスを求める者たち」と説明している。エリはジーンズやサングラスを身につけ、カラフルなヴィトンのバッグを持っている。彼らはそうしたファッションも含めた見せかけでエリを同類だとみなす。
しかし、それが勝手な思い込みである可能性が膨らんでいくとき、彼ら自身の価値観も揺らぎだす。夫たちは妻たちを厳しく責め、暴力すらふるう。近代的な価値観を身につけたはずの男たちは、イスラム的=家父長制的な男性性を露にする。そして、自立しているように見えたセピデーは、夫やエリの婚約者の暴力性を目の当たりにして、自分を守るために嘘をつくことを余儀なくされる。彼らは時代の流れに乗って中流となったが、その基盤は脆弱で、とても成熟しているとはいえない。
■■『別離』の娘たちはなにを選択するのか■■
そして、新作の『別離』では、前二作と同様に中流の家族を中心に据えつつ、さらに視野を広げ、双方の階級の現実が掘り下げられていく。物語は夫婦の対立から始まる。妻のシミンは一人娘テルメーの将来を考え、一年半かけて国外移住の許可を得たが、夫のナデルは同意しない。同居する彼の父親がアルツハイマーを患い、病人を残して国を出ることはできないというのがその理由だ。
結局、移住のためなら離婚も辞さないという強い態度に出たシミンは、実家に帰ってしまう。そこでナデルは、家事と介護のためにラジエーという女性を雇うが、介護に不手際があり、彼女を手荒く追い出してしまう。その後、ラジエーが流産したことがわかり、ナデルに19週目の胎児を死なせた容疑がかけられ、裁判に発展していく。
その事件に至るまでには、非常に多くの伏線があり、中流と下層階級の生活や価値観の違いが複雑に絡み合っている。信心深いラジエーは、本来なら妻が実家に戻っているような家で働くことも、介護のために男性に触れることも受け入れられない。しかし、夫が失業し、借金もあるため、夫に内緒で仕事を引き受けたものの、予想もしない事態に直面し、窮地に立たされ不手際を招いてしまう。ナデルが彼女を手荒く追い出した原因も、決して介護の不手際だけではない。そんなふたりは、自分と家族を守るために嘘をつかなければならなくなる。
裁判では当然、異なる階級に属する夫婦の利害が対立することになる。しかし、その根底には男女の関係をめぐる問題があり、それが二組の夫婦を後戻りができない状況まで追い詰めていく。
これまでナデルの父親の面倒をみていたのは明らかに妻のシミンであり、彼女は家を出るときも夫が止めるのを待っている。しかし彼は自分から折れることができず、感情的に行動し、保身に走り、結果的にシミンの選択肢を奪っていく。一方、ラジエーが信心深いことは悪いことではないが、聖職者の言葉をすべて鵜呑みにし、あまりにも不平等な家父長制に疑問を持たなければ、追い詰められるのは時間の問題だったといえる。
この二組の夫婦をめぐるドラマは、現代のイラン社会の見事な縮図になっている。しかしそれだけでは、この作品の魅力を明らかにしたことにはならない。前二作では、ルーヒやエリという他者について多くを語らないことが、解釈の幅を広げ、奥行きを生み出していた。それに対してこの映画では、二組の夫婦の子供たちが他者の視点を担っている。それがどちらも娘であることは偶然ではないだろう。
大人たちの事情に振り回され、重い証言まで強いられた彼女たちが、心にどれほど深い傷を負い、女性としてどのような未来を選択していくのかは観客の想像に委ねられている。そんな他者の痛みをどう受け止めるかによって、この複雑なドラマの意味や重さ、そしてイランの未来も大きく変わってくるに違いない。
《参照/引用文献》
●『イラン、背反する民の歴史』ハミッド・ダバシ 田村美佐子・青柳伸子訳(作品社、2008年)
(初出:「キネマ旬報」2012年4月下旬号)