ペドロ・アルモドバル 『私が、生きる肌』 レビュー
自己と他者を隔てる決定的な境界としての“肌”
ペドロ・アルモドバルの近作では、様々なアプローチで死と再生というテーマが掘り下げられてきたが、新作『私が、生きる肌』も例外ではない。この映画では、のっけから事情もわからないまま奇妙な状況に引き込まれる。
天才的な形成外科医ロベルが所有する研究所も兼ねた豪邸に、ベラと呼ばれる女性が幽閉されている。豪邸にはマリリアという初老のメイドも住み込み、ベラの世話をしている。
ある日そこに長く音信不通だったマリリアの息子セカが現れる。彼は監視モニターに映るベラを目にすると、誰かを思い出したように欲望をむき出しにし、彼女を力ずくで自分のものにする。そんな野獣の息の根を止めたのは、帰宅したロベルが放った銃弾だった。
やがて明らかになる登場人物の背景や関係には、アルモドバルがこだわる設定やイメージが埋め込まれている。
『トーク・トゥー・ハー』では、交通事故で昏睡状態にあるバレリーナに対する看護師の一方的な愛が、複数の男女の生と死を超えた関係に繋がっていく。この新作では、一方的な愛が、破滅と再生が水面下で激しくせめぎ合い、瞬時に入れ替わるような特殊な関係を生み出していく。
ロベルが愛する妻ガルは、12年前にセカと駆け落ちし、交通事故で全身に火傷を負い、絶望して自ら命を絶った。それ以来、完璧な肌の研究に没頭するようになったロベルは、妻にそっくりの女性ベラを作り上げる。
ではベラとは何者なのか。前作『抱擁のかけら』の主人公がある事情で本名を捨て去り、ペンネームにしていた名前で生きていたように、アルモドバルの作品の登場人物は、しばしば複数の名前や顔を持っているが、この人物にもそれが当てはまる。
ベラというのはロベルがつけた名前で、本名ではない。しかも性別も女性ではなかった。彼はロベルの恨みを買うような軽率な行動をとったために、完璧な肌の実験台にされることになったのだ。
その結果として誕生したベラとロベルの関係は非常に複雑なものになる。なぜなら、ロベルのなかには、妻を取り戻そうとする狂信的な愛とそれとは対極にある復讐心が入り混じっているからだ。それゆえに、彼はいっそう肌に溺れていくともいえる。
ベラという存在は、実際には完璧な肌だけではなく、性転換手術の産物でもある。ということは、この人物のアイデンティティに影響を及ぼすのは肌だけではないはずだが、アルモドバルはこの映画では、これまでの作品のようにセクシャリティの揺らぎに関心を示さない。
ロベルはベラと接触しようとするのではなく、監視カメラがとらえた彼女の表情を凝視する。そこでは肌だけが強く意識されている。この映画では、肌が自己と他者を隔てる決定的な境界になっていく。冒頭のセカの闖入も絶妙だ。彼が映像のなかのベラをガルに重ね、暴挙に及ぶことは、ベラに肌の力を思い知らせることにもなる。
そこで、自分の肌という境界を奪われることを死とみなすならば、これも死と再生というテーマに結びつく。ベラが肌の呪縛を解き、再生できるかどうかは、家族のようにかつての彼を知る人間が、ロベルのように肌に溺れるのではなく、目をしっかりと見られるかどうかにかかっている。
(初出:「CDジャーナル」2012年6月号、若干の加筆)