ステファン・ロブラン 『みんなで一緒に暮らしたら』 レビュー
死を制御するシステム、そして現実世界や時間からの解放
フランス映画界の新鋭ステファン・ロブランが監督した『みんなで一緒に暮らしたら』の主人公は、それほど遠くない未来に死が訪れるであろう5人の老人たち(2組の夫婦と独身者)だ。この映画では、昔から互いの誕生日をともに祝ってきた彼らが始めた共同生活が、ユーモアを交えて実に生き生きと描き出される。
なぜ老人たちはそんなことを始めるのか。きっかけは、老いてなお盛んな独身者が、デート中に発作を起こし、彼の息子によって老人ホームに入れられたことだ。ホームを訪れた仲間たちは、「大切な友をこんな所で死なせられない」と宣言し、彼を勝手に連れ出し、そこから5人の共同生活へと発展していく。
今年(2012年)公開されたニコラウス・ゲイハルターのドキュメンタリー『眠れぬ夜の仕事図鑑』では、夜に活動する様々な人々の姿を通して、治安が維持され、医療制度が充実したヨーロッパという世界が浮き彫りにされていた。そこには、新生児医師、自殺防止ホットラインの相談員、老人ホームの介護職員や火葬場職員などの現場が映し出され、誕生から死に至る人の一生が様々なかたちで制御されていることを示唆する。
ジョージ・リッツアの『マクドナルド化する社会』では、人の死を取り巻く状況の変化が以下のように説明されていた。
「死は、家庭の外に移され、死にゆく人とその家族の制御を離れ、医療従事者と病院の手に委ねられることになったのである。死が、誕生と同じく病院で起るようになってきたことによって、医師は、出産と同様に死も、高い程度で制御するようになった。一九〇〇年には、病院での死亡はわずか二〇パーセントであった。一九四九年には、それは五〇パーセントにまでなった。一九五八年までに六一パーセントとなり、一九七七年までに七〇パーセントに達した。その後一九九三年までには、病院での死亡数はしだいに減少したが(六五パーセント)、それには、養護施設で死ぬ人(一一パーセント)や、ホスピスのような施設で死ぬ人(二二パーセント)の数の増加を加えねばならない。このように、死は官僚制化されてきた。このことは合理化されてきたこと、そしてマクドナルド化さえされてきたことを意味している。マクドナルド化は、ファストフード・レストランから引きだされた原理を用いている病院のチェーン、そしてホスピスのチェーンさえもが発展していることに明白にあらわれている。マクドナルド化が死を制御するようになってきているのである」
そんなシステムに組み込まれることは、果たして幸福といえるのか。この映画の主人公たちは、共同生活によって外部の力に制御されようとしている生と死を、自分たちの手に取り戻そうとする。
しかも、この映画にはもうひとつ、興味深い視点が埋め込まれている。それは老人と現実との関係だ。共同生活を始めれば、過去の秘密も明らかになり、対立も生まれる。現実だけに縛られていれば、共同生活はどこかで破綻をきたすことになるだろう。
だが、死を身近なものとして生きる老人たちの間では、現実は必ずしも重要ではなくなっていく。たとえば、ダン・アイアランド監督の『クレアモントホテル』では、最愛の夫に先立たれた孤独な老婦人が幻想に生きる姿が肯定的に描かれていた。この映画の終盤でも、それに通じるヴィジョンが切り拓かれていく。
5人のなかには、自覚のないままに記憶を失いつつある老人がいる。一般的な価値観に従えば、それは否定的にとらえられることだが、もし仲間たちが愛情をもって受け入れるなら、時間や現実からの解放に繋がるのかもしれない。この映画のラストで、もはやこの世に存在しない仲間の名前を呼び、近くに隠れているかのように探す老人たちは、生死の境界を超え、彼らの自由な世界を生きているように見える。
《参照/引用文献》
●『マクドナルド化する社会』 ジョージ・リッツア 正岡寛司・監訳(早稲田大学出版部、1999年)
(「CDジャーナル」2012年11月号、若干の加筆)
《関連リンク》
●ジル・ブルドス『メッセージ そして、愛が残る』レビュー
●ニコラウス・ゲイハルター『眠れぬ夜の仕事図鑑』レビュー