デヴィッド・O・ラッセル 『アメリカン・ハッスル』 レビュー
積み重なる「偶然」のなかに「必然」を見出す
『世界にひとつのプレイブック』に続くデヴィッド・O・ラッセル監督の新作『アメリカン・ハッスル』は、1979年にアメリカで起きた政治スキャンダル「アブスキャム事件」を題材にしている。事もあろうにFBIが詐欺師と組み、アラブの富豪が経営する投資会社をでっち上げ、おとり捜査によって汚職政治家を摘発したというのがその概要だ。
だが、この映画を楽しむうえで事実は必ずしも重要ではない。ラッセルは事件に迫ろうとしているわけではないので、実名も使っていないし、人物像も脚色されている。但し、大いに笑えるからといって単なるコメディに仕立てているわけでもない。これはラッセル流の人間観察の映画であり、自分探しの物語でもある。
これまで足がつくことなく巧妙に詐欺を繰り返してきたアーヴィンと愛人シドニーのコンビは、ついに逮捕されてしまうが、野心に燃えるFBI捜査官リッチーから、自由と引き換えに先述したようなおとり捜査の話を持ちかけられる。チームになった彼らは、作戦を実行に移すが、アーヴィンの妻ロザリンが夫とシドニーの関係に嫉妬し、思わぬ行動に出たため、予期せぬ混乱状態に陥っていく。
この登場人物たちには、自分に嘘をつき、自分から逃げようとしているという共通点がある。
ダサい外見とは裏腹に傷つきやすいアーヴィンは、子供の頃に正直ゆえに商売で損をする父親の姿を見て詐欺師になった。自分が嫌いなシドニーの夢は、自分以外の何者かになることだ。リッチーがこだわるパンチパーマは、違う人生を歩みたいという願望を象徴している。ロザリンは結婚生活が破綻していることを受け入れられず、夫を縛りつけようと躍起になっている。
そこで効果を発揮するのが、ラッセルの独特の話術だ。その面白さは、偶然の積み重ねが奇妙な成り行きでいつしか必然に変わっていくところにある。
『アメリカの災難』や『スリー・キングス』では、生みの親やフセインが奪って隠した金塊を探し出すという当初の必然が、行く先々で遭遇する偶然によって変化し、偶然から新たな必然が導き出される。『ハッカビーズ』でも、同じアフリカ人に何度も出会うという偶然が、主人公の自分探しの手がかりになる。
ちなみに筆者が、『ハッカビーズ』のプロモーションで来日したラッセルにインタビューしたとき、彼は偶然と必然について以下のように語っていた。
「なぜ偶然が繰り返されるのか自分に問いかけ、こういうことかもしれないと考え、ある種の仮定が生まれることによって、心が解放されていくのだと思う。もちろん場合によってはネガティヴな偶然というのもあり得るわけだけど、それは逆にいえば、心を閉ざしていくものを認識し、自分に目覚める機会となる。僕は、そういう心の解放が幸福に繋がると考えているんだ」(『ハッカビーズ』インタビュー参照)
この新作も例外ではない。アーヴィンとシドニーがリッチーに逮捕され、チームを組むのも、ロザリンが嫉妬ゆえにおとり捜査を引っ掻き回すのも偶然であり、彼らはそれぞれに追いつめられていく。しかし、表面的にはそんな苦境から脱するための滑稽な騙し合いにしか見えないものが、気づいてみれば彼らが自分に目覚めるための必然になっている。そこにラッセル作品ならではの醍醐味がある。
(初出:「CDジャーナル」2014年2月号、若干の加筆)