『パパの木』 『チャイルドコール 呼声』 試写
本日は試写を2本。
『パパの木』 ジュリー・ベルトゥチェリ
長編劇映画デビュー作『やさしい嘘』(03)で注目を浴びたフランス出身の女性監督ジュリー・ベルトゥチェリの新作。どちらも愛する者の死を残された家族がどのように受け入れていくのかを描いていることになる。
オーストラリアの辺境に暮らす主人公一家は突然、大黒柱を喪うが、まだ幼い末娘のシモーンは、庭の巨木に父親がいると信じ、その思いが次第に家族に伝わっていく。
特殊効果を使うようなスーパーナチュラルな表現は一切やらず、すべてが自然との繋がりで描かれる。その自然がなかなか凄い。夜に窓を開けていると、突然なにかが飛び込んできて、部屋を舞う。それは巨大なコウモリなのだが、そんな野生の生き物に当たり前に取り巻かれた世界に引き込まれる。
一家は巨木に象徴される自然を通して、彼らにとって最も大切なものに目覚めていく。ジュディ・パスコーの『パパの木』という原作があるためかどうか定かではないが、安易に神秘性に頼ってしまうでもなく、感傷に流されるでもなく、母親が最後に口にする台詞に集約されるように、筋が一本通っていて実にいい映画である。詳しいことはまたレビューで書きたい。
そして個人的にはなんといっても庭の見事な巨木である。筆者が山に行く楽しみのひとつは魅力的な巨木に出会えることだ。ベルトゥチェリ監督は映画のテーマに見合う木をずいぶん探してこの木にたどりついたようだ。それだけのことはあって、木を見ているだけでも飽きない。
プレスではイチジクの木と書かれ、映画のなかではオーストラリアゴムの木といわれている。調べてみるとオーストラリアゴムの木はイチジクに似た実をつけるらしい。
話はそれるが、以下の写真は裂石の登山口から大菩薩峠に登るときに、上日川峠の手前で出会える筆者お気に入りの巨木たちだ。ここしばらく大菩薩には行ってなかったのだが、どちらかの木が倒れてしまったらしい。次に行ったときには寂しい思いをしそうだ。
『チャイルドコール 呼声』 ポール・シュレットアウネ
『隣人 ネクストドア』試写室日記で、今週中に観ると予告していたシュレットアウネ監督の2011年作品。やはりこの監督は面白い。
物語はヒロインのアナが、夫の暴力を逃れるために、保護監視プログラムに従って8歳の息子と郊外のアパートに引っ越してくるところから始まる。それでもまだ不安な彼女は、家電量販店で“チャイルドコール”と呼ばれる監視用音声モニターを購入し、息子の寝室に据えつける。だがある晩、混線によって別の部屋の悲鳴を聞いてしまった彼女は、次第に混乱に陥り、現実が揺らいでいく。
この映画は最後に明らかにされる真相から、ヒロインに起こったことを論理的に説明できないことはない。だが、おそらくシュレットアウネ監督は、面白いスリラーを作ろうとして知恵を絞っているわけではない。
この監督は、精神錯乱に陥った人には世界がどう見えるのかを描いている。『隣人 ネクストドア』でもこの映画でも、主人公は、夢のような非現実的な世界と現実の境界に立たされるが、最後にその識別が明確になって一件落着というような物語を語りたいわけではない。
J・アラン・ホブソンの『夢に迷う脳』では、私たちが見る夢と精神錯乱に共通する特徴(具体的には、幻覚、失見当識、近時記憶障害、作話、情動の過剰な高揚など)が、同じような脳の器質的な変化から生じていることが明らかにされる。それはどういうことか。ホブスンは以下のように説明している。
「夢を見ている時、私たちは精神疾患者の心脳状態(「心脳」とは、心と脳のユニットを意味するホブソンの造語)を体験しているわけである」→「もっと厳しい言い方をすると、夢を見るとは、心脳にやがて生じる老化や衰退という一種の精神錯乱を、前もって体験していることになる」
シュレットアウネ監督は、この夢と精神錯乱に共通する脳の気質的な変化の不思議を表現するのに、映画というメディアが相応しいことをよく理解している。そういう関心から彼は作品を作っている。詳しくはまたレビューに書きたい。
ちなみに『チャイルドコール 呼声』のプレスには、監督の以下のようなコメントがある。
「映画の中でアナの現実が崩れ始めると共に、観客は彼女と一緒に絶望し、必死に現実と想像(非現実)を区別しようと試みるでしょう。しかし、その行為は同時に解決しえない問題を提議します。「その生活の『真実』とは、誰が定めたものなのか?」と」