キム・ギドク 『嘆きのピエタ』 レビュー



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Review

復活したキム・ギドクの変化、
異空間へと飛躍しない理由とは

『悲夢』の撮影中に女優が命を落としかける事故が起こったことをきっかけに、失速、迷走していた韓国の鬼才キム・ギドク。

ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞に輝いた新作『嘆きのピエタ』では、そんな監督が復活を告げるだけではなく、興味深いスタイルの変化を見せる。

天涯孤独で冷酷な取り立て屋イ・ガンドの前にある日、母親を名乗る謎の女が現れる。彼は戸惑いつつも女を母親として受け入れていくが、果たして彼女は本当に母親なのか。そしてなぜ突然、彼の前に現れたのか。


これまでのギドクであれば、その謎を解くのではなく、謎から日常(=現実)のなかに異空間を切り拓き(あるいは、主人公をあり得ない外部へと導き)、台詞に頼らない独特の話術によって贖罪や解放を大胆に描き出していただろう。

ところが新作では、女の正体が明らかにされ、衝撃的な結末を迎える。この映画は、そんな展開だけでも十分に見応えがあるが、スタイルが変化した理由を考えてみるとその世界がさらに深くなるように思える。

ギドクが異空間へと飛躍しなかったのは、現実から離れたくなかったからだ。映画の舞台になっているのは、ソウル市内で零細工場が密集する清渓川(チョンゲチョン)周辺だ。かつて清渓川は高架道路が走り、暗渠となっていたが、大規模な復元プロジェクトで2005年に再生され、大きな話題になった。

それは素晴らしいことのように思えるが、ギドクの目に映るのは、再生と同時進行するジェントリフィケーションによって工場が消えていく光景だ。そんな現実を社会派的なスタンスではなく、もの言わぬ工場の機械や隅に追いやられていく川を通して浮き彫りにするところがいかにもこの監督らしい。

(初出:月刊「宝島」2013年7月号、若干の加筆)