フランソワ・オゾン 『危険なプロット』 レビュー



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Review

新作にはオゾンが編み出してきた様々な話術が凝縮されている

ある中流家庭を舞台にしたフランソワ・オゾンの長編デビュー作『ホームドラマ』では、父親がネズミという異物を家に持ち込んだことをきっかけにして、家族がそれぞれに自己を規定していた枠組みから解き放たれ、現実と幻想の境界が曖昧な世界へと踏み出していく。

この映画のプロモーションで来日したオゾンは、現実と幻想についてこのように語っていた。

ぼくは、夢とか幻想と現実を同次元で描きたいと思っている。幻想や夢は現実と同じくらい重要であり、人間が見えてくる。次回作では三面記事の実話がもとになっているけど、次第に実話から離れていく。人を殺した若い男女が死体を捨てるために森に入っていくけど、現実の世界で罪を犯したことに対する迷いと森のなかで迷うことがダブっていくことになるんだ」(※次回作とはもちろん『クリミナル・ラヴァーズ』のことをさしている)

オゾンはデビュー以来、様々な設定やスタイルで夢や幻想と現実を同次元でとらえるような世界を作り上げてきた。『しあわせの雨傘』につづく新作『危険なプロット』は、彼がこれまでに編み出した話術を一本に凝縮したような作品といえる。


作家になる夢を諦めた高校の国語教師ジェルマンは、新学期を迎えたばかりのある日、宿題として提出されたクロードの作文に強い興味を抱く。そこには週末にクラスメートのラファの家を訪れたときの出来事が綴られていた。ジェルマンは、他人の家庭を覗き見し、中流の生活を皮肉るような文章に戸惑いつつも、その才能に惹きつけられる。そして、自ら個人指導に乗り出すが、友人宅を舞台に発展していく物語は、次第に現実を侵食し、ふたりを取り巻く人々を巻き込み、危うい世界を作り上げていく。

この映画の土台になっているのは、スペイン人の作家フアン・マヨルガの戯曲「The Boy in the Last Raw」ということだが、映画は完全にオゾンの世界になっている。中流家庭の内側を覗き見るような視点は『ホームドラマ』を、小説の創作をめぐって現実とフィクションがせめぎ合い、転倒していく展開は『スイミング・プール』や『エンジェル』を、支配する者と支配される者、あるいは操る者と操られる者の関係が転倒する展開は『焼け石に水』『8人の女たち』を、そして失ったものや得られなかったものに執着し、幻想にとらわれるような視点は『まぼろし』を想起させるからだ。

ジェルマンとクロードは、結託してフィクションのために現実を捩じ曲げる。クロードはラファの家に通わないと物語が書けない。彼がそこに行けるのは、ラファに数学を教えるという名目があるからだ。しかし、友人の成績は上がらず、名目が効力を失いかける。そのとき、どうしても物語のつづきが読みたいジェルマンは、数学の試験問題を盗み出してしまう。

ふたりはやがて現実からしっぺ返しを食らうことになるが、それはフィクションのために同じようなことを繰り返して失敗するためではない。彼らを結びつけるのは、最初は創作への欲求や好奇心だが、途中でそれぞれの心の奥に潜んでいた感情が目覚め、ふたりの間に不協和音が生まれる。

この映画で見逃せないのは、お互いに面識もなく、関連がないように見えるラファの一家とジェルマンの夫婦が巧妙に対置されていることだ。クロードが惹かれていくラファの母親エステルは、インテリアの仕事を望みながらも、夫と息子のために主婦業に専念している。子供がいないジェルマンの妻ジャンヌは、現代アート専門の小さな画廊でキュレーターを務めている。ラファの父親シニアは、営業マンで中国の会社と取引をし、中国人のビジネスマンに振り回されている。そしてジャンヌはいま中国人のアーティストの作品を扱っている。

そうした対置は最初は目立たないが、ジェルマンとクロードが秘められた感情を露にするときに意味を持つ。クロードは、自分の家庭の複雑な事情から、ラファに代わって彼の家族の一員になる幻想に溺れる。一方、ジェルマンも、常識的な判断ではなく、特別な感情からそんなクロードの幻想に激しく反発し、自分をコントロールできなくなる。

ジェルマンとジャンヌの夫婦にはなぜ子供がいないのか。ジェルマンとクロードは、なぜフィクションを必要とするのか。オゾンは自由な解釈の余地を残しているが、軽妙なドラマのようにみえて、そこに複雑で緻密な構成を潜ませ、人間を深く掘り下げているあたりは、ウディ・アレンの到達点に迫っているかのようでもある。

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