マルコ・ベロッキオ 『眠れる美女』 レビュー
鍵を握るのは眠りつづける女、しかし眠っているのは本当に彼女たちだけなのか
マルコ・ベロッキオ監督の『眠れる美女』の出発点は、2009年にイタリア社会を揺るがせた尊厳死事件にある。17年前に植物状態となった娘の延命措置の停止を求める父親の訴えが最高裁でようやく認められるが、教会を始めとする世論の激しい反発が巻き起こり、保守層の支持を集めるベルルスコーニ首相は、延命措置を続行する法案を通そうとする。
この事件をそのまま映画にしていれば、おそらく賛否の単純な二元論に回収されてしまっただろう。だがベロッキオ監督は、賛否に揺れる社会を背景にして、三つの物語を並行して描き出していく。
妻の延命装置を停止させた過去を持つ政治家とそんな父親に対する不信感を拭えない娘。輝かしいキャリアを捨てて植物状態の娘に寄り添う元女優とそんな母親の愛を得られない俳優志望の息子。自殺衝動に駆られる孤独な女と不毛な日常に埋没しかけている医師。それぞれの関係には溝があるが、彼らは限られた時間のなかで根源的な痛みを知る体験をし、変貌を遂げていく。
複数の物語を盛り込むことで二元論を回避し、広い視野を獲得する緻密な構成はもちろん素晴らしいが、この映画の魅力はそれだけではない。
たとえば、政治家の娘は、父親に反発するように尊厳死に抗議するデモに出向き、立ち寄った食堂で尊厳死を支持する若者と出会って恋に落ち、大切なものを失う痛みを知る。そんなエピソードで見逃せないのは、出会いのきっかけだ。
彼女は敵意を持つ若者の弟からいきなり顔に水を浴びせられる。突然のことで彼女にはなにが起こったのかすぐにはわからない。だが、その瞬間に彼女の世界は決定的に変わっている。それはまさに“目覚め”としか言いようがない。
三つの物語では、登場人物たちが痛みや愛に至る以前に、まずなによりも目覚めの瞬間と言えるものが鋭くとらえられている。自殺願望の女にとって窓は飛び降りるためにあったはずだが、風を感じ、街の喧騒が響いてくる。神にすがるしかなくなっていた母親は、女優としての原点に立ち返るともいえる。
では、そうした表現はどんな意味を持つのか。映画の出発点となった事件も、映画が描く三つの物語も、鍵を握るのは眠り続ける女性の存在だが、眠っているのは本当に彼女たちだけなのか。固定観念にとらわれて当然のように行動している人間もまた眠っているに等しいのではないか。そんなことを考えさせるところに、この映画の奥深さがある。
(初出:「CDジャーナル」2013年10月号、若干の加筆)