内田伸輝 『ふゆの獣』 レビュー



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Review

「時間」と「瞬間」への視点が恋愛映画を超えた地平を切り拓く

内田伸輝監督の『ふゆの獣』の登場人物は、4人の男女だ。ユカコは同僚のシゲヒサと付き合っているが、最近、関係がぎくしゃくしている。シゲヒサの態度がぎこちない。浮気をしているのかもしれない。ノボルは同僚のサエコに好意を持っている。思い切って告白してみるが、彼女には他に好きな人がいた。それはユカコと付き合っているはずのシゲさんだった。

この映画では、4人の主人公が、複雑に絡み合っていく。内田監督は脚本に頼らず、即興を中心にした演技を長回しで撮影し、緻密に構成している。

この映画の印象的な場面やドラマの流れについて考えてみるとき、筆者がどうしても引用したくなるのが、哲学者マーク・ローランズが書いた『哲学者とオオカミ』だ。ローランズは本書で、オオカミとともに暮らした経験を通して、人間であることの意味を掘り下げている。


動物が登場するわけでもないこの映画を、動物との対比を通して論じることについては違和感を覚える人もいるかもしれない。しかし、内田監督もこの映画で動物というものをまったく意識していないわけではない。彼は「ふゆの獣」というタイトルについて以下のように説明している。

「多くの動物が冬には活動を休止し冬眠するのに対し、人間はそうしません。つまり、“ふゆの獣”=人間ということなのです」(『ふゆの獣』プレスより引用)

であるなら動物と対比して論じることにも意味があるだろう。筆者がこの映画で注目したいのは、「瞬間」と「時間」に対する視点だ。ローランズは、サルを人間が持つ傾向のメタファーとして使う。サルは愛も幸福もすべてをコスト・利益分析の視点から見る。だが、オオカミは違う。オオカミは「瞬間」をそのまま受け入れるのに対して、サル=人間は「瞬間」を前後の(あるいは過去と未来の)関係のなかでとらえ、定量化する。

『ふゆの獣』のドラマには、いたるところにサル的な傾向が現れている。たとえば、シゲヒサの部屋で彼と過ごすユカコは、小物容れのなかに自分のものではないつけ爪を発見する。だが何も表には出さない。さらにゴミのなかから口紅のついたドリンクの缶を発見するが、やはり表には出さない。

瞬間を受け入れて反応するのではなく、これまでのこととこれからのことを踏まえ、どうすれば自分が望む結果が得られるのかを考慮し、発言や行動を選択していく。4人の主人公たちは、みな同じことをしている。そして、泥沼にはまっていく。

内田監督は、そうした「時間」の絡みを徹底的に突き詰め、サル的な幸運が尽きたときになにが起こるのかを描き出そうとする。しかし、そこに話を進める前に別のことにも言及しておきたい。

この映画は、わたしたちがどのようにして今日のような男性と女性になったかについても考えさせる。サルが歩み、オオカミが無視した道とは、どのような道だったのか。ローランズは興味深い仮説を紹介している。長い引用になるが、面白いと思ってもらえるだろう。

公的なアルファ雄であったニッキーが五十メートル離れた草地に寝そべっている間に、ラウトは一頭の雌チンパンジーに言い寄った。ラウトの誘惑のテクニックは想像がつくだろう。雌に勃起したペニスを見せながらも、ニッキーには背を向けて、どうしているかを彼には見えないようにしたのだ。疑わしく思ったのか、ニッキーは立ち上がった。すると、ラウトはニッキーには背を向けたまま、雌からゆっくりと数歩だけ離れ、腰をおろした。ラウトは、ニッキーの接近に気づいたから自分も動いたのだと、ニッキーに思われたくなかったのだ。それでも、ニッキーはゆっくりとラウトの方へと近づき、途中で大きな石を拾い上げた。ラウトはときどき振り返っては、ニッキーの進行状況を確かめ、それから下を向いて、だんだん萎えつつあるペニスを見た。ペニスがすっかり萎えると、彼は回れ右をして、ニッキーに向かって歩いた。そして、自分がいかに勇敢なチンパンジーであるかをこれ見よがしに誇示するかのように、その石の臭いを嗅いでから、ニッキーと雌をその場に残して立ち去った

『ふゆの獣』のなかで起こることは、これが進化、洗練されたものとでもいえるが、本質はそれほど変わらない。そして、これにつづく文章がさらに興味深い。

オオカミが無視した進化の道を、なぜわたしたちが歩んだのかという問いに対する明白な答えは、このエピソード(この類の話はたくさんある)から得られる。つまりは、セックスと暴力だ。これら二つによって、わたしたちは今日のような男性と女性になった。幸運に恵まれたオオカミ(アルファ雄やアルファ雌)でも、一年に一度か二度しかセックスをしない。多くのオオカミはまったくすることがない。それでも、こうしたオオカミがセックスを恋しがったり、強いられた禁欲生活に苦しんでいるという兆候は見られない。サルであるわたしは、セックスに関することを客観的に見ることができない。だが、火星から来た行動学者が、オオカミと人間の性生活の比較研究をする様子を想像してみよう。その行動学者は、オオカミのセックスに対する態度は多くの点で健康で規律正しい、という結論に達するのではないだろうか。オオカミは、セックスができればそれを楽しみ、するチャンスがなければ、それはそれで不満を感じないのだ。ここで、オオカミを人間に置き換え、セックスをアルコールに置き換えてみると、人間は健康のために必要な態度を発達させており、過剰な快楽の悪癖と欲望を抑える慎み深さの間で、効果的にかじを取っていると言えるかもしれない。けれども、わたしたちはセックスについてはこのように考えることができない。セックスをしなかったら、もちろんしたくなる。セックスは自然で健康なのだ、と思わずにはいられない。このように思うのは、わたしたちがサルだからだ。オオカミとくらべると、サルはセックス依存症なのだ

『ふゆの獣』には、このようなことを考えさせる世界がある。ということで、話をサル的な幸運が尽きたときに何が起こるかということに戻す。この映画の終盤では、4人の主人公が偶然にもひとつの部屋で顔を合わせてしまう。

これまで1対1の空間では、それぞれの人物の「時間」は、かろうじて均衡を保ってきた。しかし、4人が共有する空間のなかでは、各自の時間は崩れていく。サル的な彼らは、それぞれに必死に自己を正当化しようと言葉を繰り出すが、やがて言葉を媒介として成り立つような世界は崩壊し、衝動が噴き出す。「時間」は「瞬間」に変わる。だから彼らは、動物に相応しい自然のなかを必死に走りつづけることになるのだ。

●『ふゆの獣』(2010) 7月2日(土)よりテアトル新宿にてロードショー!
出演:加藤めぐみ、佐藤博行、高木公介、前川桃子
監督・編集・構成&プロット・撮影・音響効果:内田伸輝
第11回東京フィルメックス最優秀作品賞受賞

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