アレハンドロ・アメナーバル 『アレクサンドリア』レビュー

Review

4世紀の女性天文学者の悲劇は、“人間中心主義”から脱却できない私たちの悲劇でもある

実話に基づくアレハンドロ・アメナーバルの新作『アレクサンドリア』の舞台は、栄華を極めたローマ帝国が崩壊しつつある4世紀末のエジプト、アレクサンドリア。

ヒロインは、世界の文化と学問の中心であるこの都市を象徴するような存在だ。美しく聡明な女性天文学者ヒュパティアは、探究心と理想に燃えて生徒たちを教育していた。だが、この都市にも混乱の波が押し寄せてくる。

台頭するキリスト教と異教のあいだの対立がエスカレートしていく。異教徒に対する弾圧、支配を進めるキリスト教指導者の鉾先はやがて、かつての教え子に影響力を持つヒュパティアに向けられるようになる。

アメナーバルが壮大なスケールの歴史スペクタクルを作るというのは、意外な印象を与えるかもしれない。しかしこの映画には、この監督ならではの視点が埋め込まれている。

『海を飛ぶ夢』レビューで書いたように、アメナーバルはこれまで、絶対的なものであるはずの生と死の境界が様々なかたちで揺らいでいく世界を描き出してきた。絶対的なものが揺らぐということは、自分を取り巻く世界が自分が思っているとおりのものではないということを意味する。

『アレクサンドリア』の時代には、天動説が信じられていたが、地球と惑星の動きを研究しているヒュパティアは、地動説を証明しようとしていた。絶対的なものとしての天動説が揺らげば、キリスト教も、人間中心主義も揺らぐ。アメナーバルは何度となく、宇宙から地球、そしてアレクサンドリアという都市をとらえてみせる。

この映画は、現代の世界と繋がっている。それは、宗教による対立が9・11以後の世界を想起させるということではない。たとえば、J・ベアード・キャリコットの『地球の洞察 多文化時代の環境哲学』(みすず書房、2009年)では、哲学における新しい分野としての“環境倫理学”と“人道主義”や“人間中心主義”との関係が以下のように記述されている。

「とりわけ西洋の哲学は、文字どおり何千年ものあいだ、過激ともいえるほどの人道主義と人間中心主義の立場をとってきた。プラトンとアリストテレスにさかのぼるこの伝統に立つ哲学者のほとんどが、何によって「人間」が自然から区別されるのか、どうして「人間」だけに道徳的に配慮される資格が与えられるのかを突きとめようとしてきた。自然は「人間」のための支援体制や共同資源、あるいは人間のドラマが展開する舞台にすぎなかった。中国でも、道教の伝統はさておき、儒教の伝統は同じ程度に人道主義と人間中心主義の立場に立つものだった。またインドでは、哲学者たちは自然界に背を向け、自己探求と瞑想による超越という内的な世界に向かった。新たに現れてきた環境倫理学者たちは、哲学とい学問に受け継がれてきた人道主義と人間中心主義に異を唱えて、人間の位置を自然のなかに据えて、道徳的な配慮を人間社会の範囲を越えてひろく生物共同体まで拡大しようとした(もちろん、どこまで拡大するかという問題は現代でも環境哲学者のあいだの争点である)。環境哲学者たちがこのように根本的な企てに乗り出したため、「主流の」哲学者たちの目にはかれらは賤民、ないし不可触民と映ったのである」

『アレクサンドリア』におけるヒュパティアの立場は、この環境哲学者に近い。

これは重要なことなので、もうひとつ引用しておこう。クラウス・マイヤー=アービッヒの『自然との和解への道』(みすず書房、2005年)には、以下のような記述がある。

「ゲーテはこの「共世界」という表現で、人間だけが「共[同じ]人間」(Mitmenschen)としてわれわれの共世界でありうると考えていたのではなかった。しかし、二〇世紀になって日常言語的にも哲学的にも(レーヴィット、ハイデガー)、共世界を人間だけの世界に狭めることになってしまった。他の言語においても、人間の外にある自然はわれわれのたんなる環境(Umwelt, environment)であるとみなされているように、人間以外の世界は経済学者たちが言うような一揃いの資源として、ただわれわれの回りにわれわれのために現存しているのである。こうした考え方こそまさしく人間中心主義的世界像の形態であるのだが、この立場こそが東西の工業国の自然危機を惹きおこしたのであった。人間だけがわれわれの共世界でありうるのではなく、他の生物そしていわゆる無機的自然ですらわれわれの共世界でありうるということを思い出させるために、私はゲーテの概念を使って世界を自然的共世界へ拡張したのである」

ヒュパティアの世界観は、このゲーテの共世界に近い。

さらに『アレクサンドリア』でアメナーバルらしいと思えるのが、登場人物たちの配置や構成だ。『海を飛ぶ夢』では、フリア、ロサ、マヌエラという三人の女性たちが、主人公ラモンの生と死の位相や意味を異なる角度から映し出す鏡になっていた。

『アレクサンドリア』では、この配置や構成が、男女の関係を逆転するかたちで引き継がれている。つまり、アレクサンドリアの長官のオレステス、元奴隷のダオス、キリスト教主教のシュネシオスという、かつてヒュパティアのもとで学び、あるいは彼女に仕えた三人の男たちが、彼女の生や世界観、死を映し出す鏡になっている。彼らはそれぞれにヒュパティアを想い、彼女を受け止めようとする姿勢が、キリスト教に対する温度差となって表われている。

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