ラース・フォン・トリアー 『アンチクライスト』 レビュー
人はいかにして歴史の外部へと踏み出し、動物性への帰郷を果たすのか
ラース・フォン・トリアーの問題作『アンチクライスト』は、ある家族の悲劇から始まる。夫婦が愛し合っている最中に、幼い息子がベビーベッドを抜け出し、開いた窓から転落してしまう。
息子を亡くした妻は精神を病んでいく。セラピストの夫は自ら妻の治療に乗り出し、夫婦が「エデン」と呼ぶ森の山小屋が彼女の恐怖の源になっていると推測する。夫婦はその山小屋で治療を進めるが、事態はさらに悪化し、修羅場と化していく。
その山小屋には何があるのか。妻は1年前の夏にそこにこもって論文を書いていた。夫は山小屋の屋根裏部屋で、過去のジェノサイド(虐殺)や魔女狩りに関する資料や記録を発見する。彼女はそんな歴史に深く囚われ、夫に対する殺意すら抱くようになる。
一方で、夫の前には何かの予兆であるかのように動物が現れる。小屋に向かう途中では、出産途中の鹿に遭遇する。山小屋の周辺の薮に潜んでいた狐は彼に「カオスが支配する」と囁く。殺意を露にした妻に追われ、穴に逃げ込んだ夫は、そこで生き埋めにされた鴉を見出す。
この映画を観ながら筆者が思い出していたのは、精神科医の渡辺哲夫が書いた『祝祭性と狂気――故郷なき郷愁のゆくえ』のことだ。本書は、沖縄・先島に息づくカンダーリ(表意文字で無理に記す場合には「神垂り、神憑り、神祟り」)という「巫病」、カンツキャギ(神突き上げ)、カンカカリャ(神憑り、神懸りした人)を題材にしている。
筆者がここで注目したいのは、著者がその「巫病」を精神障害に分類せずに、感受性や直感に従って掘り下げていく理由だ。それは、この映画に描かれる「動物」や「歴史」と無関係ではない。筆者の印象に残っている記述をいくつか拾い出してみよう。
「言うまでもなく<人間>は特殊ではあるが<動物>の一種である。進化論を信ずるならば、<人間>は、単細胞生物から始まって、原始哺乳類に至り、さらに途方もなく長い時間を経て、猿から、類人猿から進化してきた最先端に立つ<動物>である。だが、進化は幸福であったか、進化は神に近づくことであったか、それとも、進化は楽園からの追放ではなかったか、呪われた異化ではなかったか、致命的な跳躍ではなかったか。これはじっくりと考えるに値する問いである」
「じっさい、人間である以上、誰であっても精神性の直下に<動物性>という深淵を抱え込んでいる。だが、精神性が世俗の利害損得にのみ関心をもつ、計算された「企て」にまで堕ちてしまい死語と化してしまった現在、われわれは自然神・太陽神から与えられた透明な<動物性>に郷愁の念を抱き始めているのではないか」
「<動物性>を乗り越えて「進化」して<人間>となったわれわれという存在は<反・動物性>と規定されうるだろう。ここで、この「反」は、<動物性>の否定、隠蔽、抑圧、忘却、歪曲、追放、また、<動物性>の超越や言語的に媒介された歴史化、さらには<動物性>からの疎外、異化など、じつに多様な意味を含みもつけれども、<反・動物性>が原初において楽園を追放された者の特性であることは言うまでもあるまい。<反・動物>たるわれわれは、楽園を、故郷を、さらには自然に密着した太古の世界を、大自然を、輝く太陽を懐かしむ。だが、この郷愁の念が激しい衝動となれば、われわれは<動物>に戻れるのだろうか。不可能である。少なくとも異様に歪んだ形でしか<動物>に近づけない。この衝動の帰結は、<人間>否定、すなわち<反・動物>超越とならざるをえない。
それゆえ、<動物性>への歪みねじれた帰郷は、<反・反・動物性>と言うべき奇怪な特性に支配された存在になること以外にないのである」
動物は過去も未来もなく<瞬間>を生きる。<反・動物>としての人間は、「生産労働の歴史」に取り込まれ、過去と未来に縛られ、憂愁、倦厭、嫉妬、苦痛に苛まれる。そこでカンダーリという<狂気>が意味を持つ。「それは「歴史性」によって封印拘束された<反・動物性>から脱出せんとする衝動、<瞬間性>に祝福された高貴な<動物性>に帰郷せんとする衝迫の炸裂という運動である」
『アンチクライスト』でまず興味深いのは、フォン・トリアーがこの映画を作ろうとしたきっかけだ。彼はうつ病に苦しみ、リハビリとして、あるいはセラピーみたいなものとして台本を書いた。プレスにはこんな発言が引用されている。
「台本は完成し、あまり思いいれもなく、撮影した。私の身体的、そして知的能力のキャパシティの半分も使っていなかった。私はいつものやり方で台本を書かなかった。意味もなく、シーンが追加された。理屈やドラマチックな考えなしにイメージが作り上げられた。それらの多くは当時、私がよく見ていた夢や、若い頃の夢から成っていた」
「今回は全く違った状況にいる。実際に多くのことが自分でも説明できない。自分自身さえも。恐らく、これが積極的に解き放つということなんだと思う」
こうした発言は、彼が、言語を媒介として成り立つ世界に縛られることなく、精神性の深淵からイメージを引き出したと解釈することもできるだろう。
映画のなかで<狂気>にとらわれるのは妻だが、それは何らかの解放につながるような狂気ではない。夫が屋根裏で見つけたジェノサイドや魔女狩りに関する資料や記録が示唆するように、彼女の狂気の源には<歴史>がある。森のすべてを恐れ、自然を悪魔の教会と表現する背景には<反・動物>としてのキリスト教がある。
彼女はセックスによって<瞬間>を生き、<歴史>から逃れようとするが、夫は異端審問官のように息子の検死報告を差し出し、現実に引き戻す。フォン・トリアーが表現しようとする“アンチクライスト”とは、彼女の変化や狂気を意味するわけではない。もがき苦しむ夫婦が招き寄せるカオスや殺戮が、<反・キリスト>→<反・反・動物>に至る。
エピローグでエデンを後にする夫は、<歴史>の外部へと踏み出しているように見える。野生の果実を口にしながら森を行く彼は、鹿と狐と鴉という動物に迎えられる。果実は原罪をもたらすのではなく、自然に密着した世界を切り拓く。その光景を<動物性>への帰郷と見ることもできるだろう。
《参照/引用文献》
●『祝祭性と狂気――故郷なき郷愁のゆくえ』渡辺哲夫(岩波書店、2007年)
(初出:「CDジャーナル」2011年3月号、加筆)
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