ミシェル・アザナヴィシウス 『アーティスト』 レビュー
サイレント映画から新たな魅力を引き出す現代的なアプローチ
サイレント映画がなぜそれほど大きな注目を集めるのか? ミシェル・アザナヴィシウス監督の『アーティスト』が世界の映画賞を席巻しているという話題を耳にしたとき、筆者はそんなふうに感じていた。しかし実際に作品を観て、理由がよくわかった。これはかつてのサイレント映画を単純に現代に甦らせただけの作品ではない。そこにはサイレントというスタイルに対する現代的なアプローチが見られる。
筆者がまず面白いと思ったのは導入部の表現だ。映画は、ジョージ・ヴァレンティン主演の新作『ロシアの陰謀』が上映されているところから始まる。私たちはいきなりサイレント映画のなかでもう一本のサイレント映画を目にする。劇中のスクリーンでは、ジョージ扮するヒーローの活躍が描かれる。さらに新作の映像だけではなく、客席の様子も映し出される。そのとき私たちは、観客が息を呑んだり、拍手をしたりする姿から、スクリーンで起こっていることを想像している。
しかし、この導入部でもっと興味深いのが、音楽の使い方だ。新作の上映中は緊張感のある重厚な音楽が流れ、舞台挨拶になると軽快な音楽に変わる。このふたつの音楽が持つ意味には大きな違いがある。舞台挨拶のときに流れるのは、その場面にあわせた『アーティスト』という作品のための音楽だ。ところが、それ以前に流れているのは、上映されている映画の展開にあわせた『ロシアの陰謀』という作品のための音楽なのだ。ということは、それをスクリーンの前で演奏している楽団の音楽に重ねることができる。
するとちょっと奇妙なことになる。私たちには、息遣いや拍手など観客がたてる音は聞こえない。サイレント映画だから当然だ。ところが、観客の前で演奏する楽団の音楽は聞こえる。その落差は、舞台裏で待機するジョージの演技でも強調されている。彼は実際に響いている音楽が終わったところで、会場の反応を確認するために耳をすます。だが音楽とは違い、客席の喝采は音にはならない。そういう細かな部分がまず印象に残り、この映画はなにかが違うと思わせるのだ。
『アーティスト』には、二種類の表現があるといえる。たとえば、ジョージの楽屋を訪れたペピーが、鏡にメッセージを残したり、彼の衣装に腕を通して一人芝居を演じるのは、典型的なサイレントの表現といえる。しかしもう一方には、音や声を強く意識した独自の表現がある。というよりも、そもそもサイレントからトーキーへと移行する時代の物語をサイレント映画として描くというひねりの効いた発想自体が、逆説的に音や声を意識させる原動力になっている。
そうした表現のなかでも特に印象に残るのが、トーキーのテスト版を見せられ、楽屋に戻ったジョージの前で、突然、世界が激変する場面だろう。グラスや椅子など身の周りのものがみな音をたて、愛犬の鳴き声や電話のベルが響きわたる。だが、彼がいくら声を出そうとしてもまったく声にならない。これまでずっと第一線で活躍してきて、身も心もサイレントの世界と一体になっているスターの孤立感が実に見事に描き出されている。
ちなみに、この場面には夢というオチがついているが、声を失ったスターという象徴的なイメージは最後まで引き継がれ、しっかりと生かされている。ジョージを想いつづけるペピーは、彼が映画界に復帰できるように尽力する。だがそれは、トーキー作品に出演することを意味する。ペピーが渡そうとする台本は、彼にとって恐怖以外のなにものでもないだろう。それを開けば間違いなくたくさんの台詞が並んでいる。この映画は彼を苛む強迫観念を、当たり前のように話をする人々の口のクローズアップで表現してみせる。
そして、そんな伏線がジョージの復活を際立たせることになる。なぜなら彼は、タップダンスというボディランゲージこそが自分の声であることに目覚めるからだ。
(初出:『アーティスト』劇場用パンフレット)