マリウス・ホルスト 『孤島の王』 レビュー

Review

銛を3本打っても死なない鯨の物語が世界を呑み込んでいく

マリウス・ホルスト監督のノルウェー映画『孤島の王』は、1915年、不適な面構えをした少年エーリングが、オスロ南方のバストイ島に上陸するところから始まる。外界と隔絶した島には、罪を犯した少年たちを収容する施設があった。

C19という番号を与えられたエーリングは、高圧的な院長と寮長への反抗や島からの脱走を繰り返し、その度に懲罰を課せられる。やがて彼の不屈の魂は、監視役の優等生オーラヴの心を動かし、島の秩序を揺るがしていく。

映画の冒頭には以下のような言葉が浮かび上がる。「バストイ島には1900年から1953年まで非行少年のための矯正施設が存在した。この物語は事実にもとづく」


だが、この作品は、事実をリアルに再現することだけを目指しているわけではない。筆者は、アク・ロウヒミエス監督のフィンランド映画『4月の涙』のことを思い出していた。2本の映画には共通点がある。

『4月の涙』では、フィンランド内戦末期の1918年を背景に、白衛隊の准士官アーロと捕虜となった赤衛隊の女性兵ミーナ、そして捕虜を裁くエーミル判事の関係が、敵と味方という図式に縛られない独自の世界を切り拓いていく。

その鍵を握るのは自然や動物だ。内戦のなかで自分を見失い、堕落したエーミルは、捕虜を「動物」とみなし、ほとんど無差別に処刑している。これに対してアーロの前には一匹の野生の狼が現れ、彼は動物の側に、あるいは自然と共生する存在として位置づけられる。

そこで、もし捕虜を動物とみなし、処刑することだけを批判的にとらえるだけならば、平凡な物語になっていたはずだが、この映画は違う。エーミルは海鳥を銃で撃ち落とし、死骸をもてあそぶ。そのときアーロは、動物にも生きる権利があると主張する。つまり、人間が他の人間に加える仕打ちと、人間が動物や自然に加える仕打ちが同じこととみなされる。

この映画では、内戦という悲劇の歴史が、「人間中心主義」ではなく、人間の位置を自然のなかに据える「環境哲学」の視点から読み直されている。

『孤島の王』にも、権力者と自由を渇望する少年たちという人間中心の図式に縛られない世界があり、そこでは自然や動物との関係が鍵を握っている。

船乗だったエーリングには頭から離れない光景がある。鯨の映像とともに、モノローグがその光景を描写する。「銛を3本打っても死なない鯨がいた。丸一日生き延びた。船を寄せて近くで観察してみるとその鯨は衰弱していた。体は過去の戦いの傷で覆われていた」

その鯨の姿は不屈の魂を持つエーリングを思わせるが、この映画は、彼らを単純に重ね、安易な比喩を生み出すようなことはしない。

読み書きができないエーリングは、優等生のオーラヴに手紙の代筆を頼む。だが、その内容は鯨の物語であり、特定の誰かに宛てたものでもない。その物語のなかでは、オーラヴが甲板長を、エーリングが銛打ちの役を担っている。オーラヴは、そんな代筆を通して、鯨の物語に引き込まれていく。

この映画では、ふたつの物語がせめぎ合っているといえる。ひとつはキリスト教に支えられた物語だ。院長はエーリングに、高潔で謙虚なキリスト教徒の心を見つけ、それを育むことだと諭す。この施設では、そんな目的のためなら非道な懲罰も正当化される。そしてもう一方に鯨の物語がある。

どちらの物語にも暴力が潜んでいるが、そこには決定的な違いがある。キリスト教に支えられた物語には嘘がある。院長や寮長は、高潔で謙虚な心を掲げながら、施設の運営資金の横領や少年に対する性的虐待を行っているからだ。

エーリングとソーラヴは、鯨の物語を通して解放されていく。あるいは、自然のなかに引き出されていく。ふたりに道を示すのは、本土から氷のうえを渡ってきたトナカイだ。厳しい自然のなかで、彼らが生きるにしても命を落とすにしても、そこに嘘はない。そして、鯨の物語は生と死の境界を超えて引き継がれていく。