カリン・ペーター・ネッツアー 『私の、息子』 レビュー

Review

母と息子から浮かび上がるルーマニアの未来

■悩みの種である息子

カリン・ペーター・ネッツアー監督にとって3作目の長編となる『私の、息子』は、ルーマニアの首都ブカレストに暮らす裕福な建築家/舞台装置家コルネリアの誕生パーティの場面から始まる。それは各界の名士が集う華やかなパーティだが、彼女の一人息子バルブの姿はない。

コルネリアには、30歳を過ぎても道が定まらない息子が悩みの種になっている。そのバルブは親に与えられた家でシングルマザーの恋人カルメンと暮らし、母親の顔を見れば悪態をつき、実家に寄り付こうとしない。そんなある日、バルブがスピードの出し過ぎで交通事故を起こし、子供を死なせてしまう。そこでコルネリアは、人脈や賄賂などを使い、あらゆる手段に訴えて息子の刑務所行きを回避しようとする。

息子を溺愛する母親と自立できない息子をめぐる物語は決して珍しくはない。しかし、ネッツアー監督が切り拓く世界は、他のルーマニア・ニューウェーブの作品と同じように、この国の歴史や社会と密接に結びついている。


たとえば、日本でも公開されたクリスティアン・ムンジウ監督の『4ヶ月、3週と2日』(07)には、この母親と息子の関係を理解するためのヒントがある。

この映画では、チャウシェスク政権下の87年を背景に、ルームメイトの違法な中絶手術を手助けする女子大生オティリアの一日が描かれる。そんなドラマのなかに、ヒロインが恋人の母親の誕生会に顔を出す場面がある。恋人の家族はブルジョワで、母親とその友人たちは、労働者階級であるオティリアの両親のことを見下すような発言をする。しかも恋人も彼女を庇おうとはしない。だから彼女は恋人と二人だけになったときに、「あなたも私の親が無学だと思っている」という台詞を口にする。

この誕生会のやりとりには、チャウシェスク政権下の社会が巧みに反映されている。政治学者ジョゼフ・ロスチャイルドの『現代東欧史』には、チャウシェスクが80年代末まで権力を維持することができた事情が、以下のように説明されている。

これは、社会を黙らせて個々ばらばらにし、教会の弱さと従順を利用し、労働者と農民、労働者とインテリゲンチア、ルーマニア人と少数民族(おもにハンガリー人とロマ)、軍と警察、国家機構と党機構、これら官僚と自分の一族、その他を相互に、またそれぞれの内部で反目させる、彼の戦術の巧みさのおかげだった

この記述を踏まえるなら、誕生会のやりとりから受ける印象も変わってくるはずだ。オティリアの恋人は心情的には彼女を庇いたいと思っている。だが、社会生活で培われた価値観に呪縛され、身動きがとれなくなっているのだ。そこで、このような関係が、『私の、息子』の家族にも引き継がれていると書いたら、読者は首を傾げるだろう。なぜなら、これはあくまでチャウシェスク政権下の話だからだ。しかし、ロスチャイルドは前掲同書で革命以後の状況を以下のように書いている。

権力の集中と特権の構造はチャウシェスクの没落ののちまでしぶとく生き延びた。強制、恐怖、疑惑、不信、離反、分断、超民族主義といった政治文化がルーマニアで克服されるまでには長い時間が必要である。結局のところこうした文化は、半世紀にもおよぶ共産主義支配によってさらに強化される前から、すでにルーマニアの伝統となっていたからである

■革命によって社会は変わったのか

そんな現実があるからこそ、ニューウェーブの作品は、革命によって社会が本当に変わったのかどうかを様々な角度から検証しようとする。それが『私の、息子』にも当てはまることは、冒頭の盛大な誕生パーティの場面を見ただけでも容易に察せられる。母親と各界の名士たちの交流は、明らかに旧態依然とした権力の集中と特権の構造を示唆しているからだ。

では、『4ヶ月、3週と2日』で注目したような関係は、コルネリアとバルブ、そして彼の恋人カルメンに具体的にどのように引き継がれているのか。筆者はその視点の鋭さと表現の大胆さに鳥肌がたった。バルブは母親に反抗し、なんとかカルメンと家庭を築こうとしている。しかし、それはあくまで“心情”のレベルで成り立っている関係にすぎない。より親密な“スキンシップ”のレベルでは、彼らの関係ががらりと変わってしまうのだ。

事故に関する取り調べが終わったあとで、母親に付き添われて帰宅したバルブは、彼女のマッサージを受ける。そのとき彼は、別人のように従順に身を委ねている。それは事故のショックで放心状態にあるからではない。愛撫のようなマッサージは、明らかに習慣を思わせるからだ。その一方で、バルブはカルメンと交際するにあたって、彼女がなにか病気を持っていないか徹底的に調べていたことがわかる。しかもそれでもまだ彼女とのセックスにある種の恐怖を感じている。これがなにを意味するのかは、あまり説明の必要もないだろう。彼は心情的にカルメンを求めながらも、疑惑や恐怖の政治文化に呪縛されているのだ。

さらに、交通事故を契機として展開していくドラマもまた非常に興味深いものになる。なぜなら、母親が息子を救うために奔走することは、異なる階層や組織に属する人々と駆け引きを繰り広げることを意味し、そこから自ずと社会の実態が浮かび上がってくるからだ。階層や組織が分断され、反目し合う社会では、金だけが確かなものになり、賄賂がまかり通る。事故の供述調書を強引に書き換えようとするコルネリアに心情的な反感を持っていた警官が、いつの間にか持ちつ持たれつの関係になっている現実は恐ろしい。

だが、事実を捩じ曲げるためには手段を選ばない母親の前に、大きな壁が立ちはだかる。見逃せないのは、事故の被害者家族が農民であることだ。母親と息子は、悲しみに打ちひしがれた農民の夫婦とどう向き合うのか。それはルーマニアの未来とも深く関わっている。

《参照/引用文献》
●『現代東欧史 多様性への回帰』ジョゼフ・ロスチャイルド 羽場久■(さんずいに尾)子・水谷驍訳(共同通信社、1999年)

(初出:「キネマ旬報」2014年7月上旬号、若干の加筆)