『クラウド・アトラス』 試写

試写室日記

本日は試写を1本。

『クラウド・アトラス』 ウォシャウスキー姉弟+トム・ティクヴァ

『ナンバー9ドリーム』で知られるイギリスの作家デイヴィッド・ミッチェルの同名小説の映画化。親交のあるウォシャウスキー姉弟とトム・ティクヴァの共同監督・脚本・製作。

1849年の南太平洋、1936年のスコットランド、1973年のサンフランシスコ、2012年のイングランド、2144年のネオ・ソウル、“崩壊”後の2321年と2346年のハワイ。5世紀にわたる6つの物語が、輪廻や足跡によって結びつき、より合わされ、ひとつの大きな流れを形づくっていく。

人間の営みを大きな視野からとらえ直すのであれば、テレンス・マリックの『ツリー・オブ・ライフ』やラース・フォン・トリアーの『アンチクライスト』や『メランコリア』、あるいはリドリー・スコットの『プロメテウス』くらいまでやることが珍しいことではなくなっているので、この構成だけで単純に壮大ということはできない。

もし輪廻を通して広げられる視野はこれで精一杯というような安易で消極的な考えが紛れ込んでいたのだとすれば、逆に半端で小さな世界ということにもなる。この映画がしっかりとした意図をもってその枠組みが設定されているのかどうかは、出発点となる時代である程度、判断ができる。


イスラエルの作家アモス・オズの講演集『わたしたちが正しい場所に花は咲かない』には、以下のような話が出てくる。

だいたい十九世紀のあるときまでは、世界の大部分の地域で、ほとんどの人は少なくとも基本的な三つのことについてはっきりとわかっていました。どこで人生を送るか、仕事は何をするか、死後はどうなるか、の三つです。ほんの一五〇年くらい前まで、ほとんどだれもが自分の生まれたところか、その近く、もしかしたら隣村あたりで一生暮らすと思っていた。だれもが、親がしていた仕事かそれに似た仕事をして生計を立てると考えた。そうして、もしおこないがよければ、死んでからもっとよい世界に移れると信じていました。

二十世紀はこうした確信を衰退させ、ときには消滅させたのです。こうした基盤となる確信の喪失を埋め合わせるかたちで、徹底的にイデオロギーが支配する半世紀がつづき、それからこの上なく利己的で、享楽的で、新式の器具に振り回される半世紀が来ました

19世紀のあるときに大変革がはじまり、その後、私たちは確信を失い、道に迷っている。1849年から始まるこの映画は、登場人物の立場も含めて、だいたいそのようなヴィジョンに符合している。だから消極的ではなく、とりあえずは壮大という形容に値すが、詳しいことはまたレビューで。

《引用文献》
●『わたしたちが正しい場所に花は咲かない』アモス・オズ 村田靖子訳(大月書店、2010年)