『ジャンゴ 繋がれざる者』 試写
本日は試写を1本。
『ジャンゴ 繋がれざる者』 クエンティン・タランティーノ
新年早々だったと思うが、「Village Voice」に「クエンティン・タランティーノを守る方法」という記事があった。その中身はこんな感じだ。タランティーノは新作を作るたびに、悪くいえば“剽窃者”、よくいえば“中身のないポストモダニスト”、要するにパクリばかりで、本質がないと批判される。だから彼を弁護しなければならない。
ということで、まず『荒野の用心棒』に注目する。この映画は黒澤の『用心棒』のパクリだったのに、カメラワークや音楽やイーストウッドのパフォーマンスが評価されている。タランティーノの場合は単なるパクリではなく、ストーリーもキャラクターも彼にしか生み出せないもので…というように展開していく。
その論点はわからないではないが、出発点の部分で中身のないポストモダニストという形容を単に否定的なものとしてとらえてしまうところに根本的な問題がありそうだ。この世には間違いなく中身のないポストモダンの世界があって、タランティーノは喜んでそれを受け入れ、独自の感性を培った。
その手法はざっくりいえばこんなことになるだろう。タランティーノは、エクスプロイテーション・フィルムを好む。その過剰さに惹かれるのだ。その過剰さは本当は、映画が作られた時点での、時代性や社会性と結びついているが、タランティーノの場合は、パクるというよりは、徹底的に漂白洗浄して、社会性やキャラクターの他者性はきれいに流して、過剰さの部分だけを再度、デコレーションして、特有のシャッフルをほどこす。
この新作では、かつての南部の奴隷制を取り上げているので、どうしても人種の問題で批判する人たちがいるが、それは無理があるだろう。一度漂白されて、デコレーションされた記号なのだから。そういう意味では、タランティーノのインタビューで、人種問題について突っ込んだ質問をされて、彼が戸惑っているのを見ると、気の毒になる。
新作では、『続・荒野の用心棒』やコルブッチへのオマージュよりも、フライシャーの『マンディンゴ』から得たであろうインスピレーションの方が印象に残る。タランティーノは『マンディンゴ』をブラックスプロイテーション・フィルムの傑作として賞賛している。その『マンディンゴ』がしっかりと漂白されて、この映画のなかで生かされているが、詳しいことはまたレビューにて。