マイケル・ウィンターボトム 『いとしきエブリデイ』 レビュー

Review

感情と距離の間にあるマイケル・ナイマンの音楽

マイケル・ウィンターボトムは、『いとしきエブリデイ』を99年の監督作『ひかりのまち』と対を成す家族の物語と位置づけている。そんな接点を持つ二作品で重要な役割を果たしているのが、マイケル・ナイマンの音楽だ。ウィンターボトムの映像とナイマンの音楽の関係は、一般的な映画のそれとは違う。

ウィンターボトムは、物語に頼るのではなく、リアルな状況を積み重ねていくことで独自の世界を作り上げていく。かつて彼は自分のスタイルについて以下のように語っていた。

私は一般的な意味での物語というものに観客を引き込むような作り方はしたくない。観客が自分の考えや感情を自由に選択する余地を残しておきたい。それがある種の距離を感じさせることになるかもしれないが、決めつけを極力排除し観客に委ねたいんだ


ここで筆者が注目したいのは、彼の言葉のなかにある「距離を感じさせる」という部分だ。物語や演出によって明確な喜怒哀楽を生み出すのではなく、人物をありのままに描き、解釈を観客に委ねようとすれば、ある程度、対象を突き放さざるをえない。しかし、『ひかりのまち』や『いとしきエブリデイ』では、そんなスタイルが生み出す対象との距離が消し去られている。

ロンドンに暮らす三姉妹を主人公にした『ひかりのまち』で、マイケル・ナイマンの音楽が際立つ場面には共通点がある。勝手に会社を辞め、独り言をつぶやきながら橋の上に佇む三女の夫や、伝言ダイヤルで知り合った男と過ごしたあとで、雨のなかをバスで自宅に戻る次女、花火大会の会場を彷徨う長女の息子など、どれも登場人物がひとりの場面なのだ。

ウィンターボトムのスタイルを踏まえるなら、そのような場面では、人物の心の揺れを単純化してしまうような音楽も、孤独だけが際立ってしまうような音楽も避けなければならない。しかし、ナイマンの音楽はどちらでもない。ピアノや弦楽器と管楽器のアンサンブルが人物に寄り添い、彼らを包み込んでいく。そして私たちも、音楽に誘われるように彼らを見つめ、その心の揺れを感じ取っている。

一方、『いとしきエブリデイ』の映像と音楽の関係には、『ひかりのまち』とは異なるポイントをあげることができる。5年にわたる物語には繰り返されるエピソードがあるが、それと音楽は無関係ではない。

繰り返しといえばもちろん刑務所での面会だが、見逃せないのは、面会を終えたイアンが監房に戻り、ベッドに横たわるところまでが映し出されることだ。ウィンターボトムがひとりになったイアンを強く意識していることは音楽で察せられる。ベッドでの彼の表情をとらえるあたりからしばしばナイマンの音楽が流れ出すからだ。

イアンは感情を面には出さないが、もろもろの感情が湧き出してくるのはひとりになったときであり、私たちは彼に寄り添う音楽に導かれるように、彼の内面に去来するものを想像している。さらに音楽は、ノーフォークの田園風景や母子のドラマなど、次に続く映像と閉ざされた監房の世界を結ぶことで、内と外の隔たりを際立たせる役割も果たす。

しかし、繰り返されるのは面会だけではない。カレンと子供たちは映画のなかで三度、海に行く。それらのエピソードは、前後の関係から異なる空気を漂わせる。一度目は、子供たちがそろって父親に面会したあとにつづくもので、海には母子だけで行く。二度目は、イアンが少量のハシシを刑務所内に持ち込んだあとのことで、父親の代役を務めるエディが子供たちの遊び相手になる。そして最後は、イアンの出所やカレンの告白を経たあとに、家族6人で訪れる。

ウィンターボトムは、こうした海を背景にしたドラマでも、物語や演出で錯綜する複雑な感情を単純化してしまうのではなく、ナイマンの音楽を通して家族に寄り添い、私たちに彼らの内面を想像させる。そして、直接的には描かれないものや見えないものへの想像が積み重なっていくとき、この映画の世界は大きく広がっている。

(初出:『いとしきエブリデイ』劇場用パンフレット)