趙曄(チャオ・イエ)『ジャライノール』レビュー
ふたりは「日常」と「記憶」のはざまにある風景を旅する
中国映画界の新鋭チャオ・イエ監督の長編第2作『ジャライノール』は、実に素晴らしい映画だった。
舞台は、ロシアと国境を接する内モンゴル自治区にあるジャライノール炭鉱。そこは蒸気機関車の最後の聖地といわれる場所であり、その広大な風景のなかに、年老いた機関士ジュー・ヨウシアンと、年の離れた後輩リー・ジーチョンの絆が描き出される。
チャオ・イエ監督が見つめるのは明らかに消えゆくものだが、この映画にはノスタルジーとは一線を画す強度がある。
筆者はこの映画を観ながらレイモン・ドゥパルドンのドキュメンタリー『モダン・ライフ』のことを思い出していた(ちなみにこれは筆者が2010年洋画のベスト1に選んだ作品である)。それはおそらく人間と風景の関係に共通するものを感じたからだろう。
『モダン・ライフ』では、フランスの山間の地で昔とあまり変わらない生活を送る農民たちの姿が描き出される。この映画の作品評を書いたとき、筆者はイスラエルの作家アモス・オズの講演集『わたしたちが正しい場所に花は咲かない』(村田靖子訳/大月書店/2010年)から、こんな言葉を引用した。
「だいたい十九世紀のあるときまでは、世界の大部分の地域で、ほとんどの人は少なくとも基本的な三つのことについてはっきりとわかっていました。どこで人生を送るか、仕事は何をするか、死後はどうなるか、の三つです。ほんの一五〇年くらい前まで、ほとんどだれもが自分の生まれたところか、その近く、もしかしたら隣村あたりで一生暮らすと思っていた。だれもが、親がしていた仕事かそれに似た仕事をして生計を立てると考えた。そうして、もしおこないがよければ、死んでからもっとよい世界に移れると信じていました。
二十世紀はこうした確信を衰退させ、ときには消滅させたのです。こうした基盤となる確信の喪失を埋め合わせるかたちで、徹底的にイデオロギーが支配する半世紀がつづき、それからこの上なく利己的で、享楽的で、新式の器具に振り回される半世紀が来ました」
『モダン・ライフ』には、その「19世紀のあるときまで」の生活や世界観に近いものが映し出されている。高齢の農民たちは、家族単位の農業が成り立たなくなるまでの長い間、自分の生活や人生が幸福だとか不幸だとか、仕事がきついとか苦しいとか、彼らを取り巻く風景が美しいのかどうかといったことを考えたりはしなかった。ただそうやって生きて、やがて死ぬということを確信していたからだ。ある意味で彼らは風景であり、風景は彼らだった。
だが現代では、“没場所性”という言葉に表われているように、この図式は失われている。あるいはここで、政治学者ジョン・グレイの『グローバリズムという妄想』(石塚雅彦訳/日本経済新聞社/1999年)のこんな記述を思い出してもいいだろう。
「後期近代の資本主義は人間をハイテク刑務所に収容し、職場や公道をビデオ監視カメラで見張るかもしれない。しかし、人間を官僚主義の鉄のおりや労働分業の狭い特殊分野に永久に閉じこめることはない。閉じこめるのではなく、人間を断片化された現実と意味のない選択の氾濫の中に放り出すのである」
『モダン・ライフ』では、消えゆく農民たちを見つめながら、実は彼らが持つ確信を通して私たちが見られている。「断片化された現実と意味のない選択の氾濫」のなかに放り出された私たちは、自己もまた断片化され、意味のない選択の対象となり、乖離しつつある。だから外部の空間に統一性のある風景を見出すことが不可能でも、内面に風景を構築していかなければならない。
もちろん『ジャライノール』の主人公たちの状況は、『モダン・ライフ』とは違う。彼らの世界は、アモス・オズの言葉に当てはめるなら、「イデオロギーが支配する半世紀」に近く、ほぼ間違いなく次の段階に移行することなく消え去ることになる。但し、支配とはいっても、会合で党幹部らしき人物が仕事中の飲酒を注意する程度で、すでにかなり箍が弛んでいて、主人公と風景の間にイデオロギーが介在しているようには見えない。彼らは風景に馴染み、そんな生活が淡々とつづいていくような印象を受ける。だから彼らの日常は、『モダン・ライフ』に近い。
しかし、ふたりの生活や関係に変化が訪れる。ある日ジューが、30年働いた炭鉱を去り、娘夫婦のもとに行く決意をする。これまでいつも彼と一緒だったリーは、そんなジューを追って旅に出る。そこで、時間の流れや空間の意味も変化する。だがそれは、映画が終わろうとするときに気づくことだ。
ジューは、リーを突き放したり、自分の時計をくれてやったりして、何とか追い返そうとするが、彼はついてくる。そして車で迎えにきた娘夫婦と合流したジューは、諦めてリーを受け入れようとする。だが、リーはそんなジューに甘えることなくきびすを返す。そこには、風景と人間の関係をめぐる境界のようなものを見ることができる。
ジューが妹夫婦の車に乗り込んだときから、彼と一体になっていた風景は記憶に変わっていく。彼が向かう先には、断片化された現実と意味のない選択が待っているかもしれない。一方、リーは結界のなかにとどまる。ふたりの旅の時間は、日常と記憶の中間にあり、そこで彼らはお互いに他者を通して風景と繋がり、他者と風景が分かち難いものとなる。
チャオ・イエ監督の物語の止め方は絶妙だ。リーはたとえ炭鉱に戻っても仕事には間に合わないだろうが、結末はもはやそういう次元にはない。彼自身が風景に溶け込み、消え去るようにも見える。一方、ジューの時間は、風景が記憶に変わる寸前で途切れる。それがなんともいいがたい余韻を醸し出すのだ。