リサ・チョロデンコ 『キッズ・オールライト』 レビュー

Review

“普通の家族”は幻想だ

■■ある静かな革命的行為■■

アメリカの作家デイヴィッド・レーヴィットの『愛されるよりなお深く』には、ダニーとウォルターというゲイのカップルが登場する。彼らは都会ではなく、ニュージャージーの郊外住宅地に暮らしている。

ウォルターが郊外を選んだ理由はこのように表現されている。「彼は、ある静かな革命的行為に出る決心をした――生まれ持った性的嗜好を郊外の家庭生活のなかに織り込む。都会の土壌に根づいた同性愛の種を掘り出し、緑の庭の健全なる大地に植え変える

一方、ダニーは家庭についてこのように語っている。「七〇年代に離婚家庭や不幸な家庭に育った子供たちは、大人になると、自分には縁のなかった、だが子供心にずっと渇望してきた堅実な家庭を改めてつくろうとする。これは世代の特徴だよ、とダニーは言う

この小説が出版されたのは89年のことであり、いまではゲイのカップルが都会から郊外に移り、二人で堅実な家庭を作ろうとするだけでは「静かな革命的行為」とはいえないだろう。

それでは、リサ・チョロデンコ監督の『キッズ・オールライト』に登場するレズビアンのカップルの場合はどうか。ニックとジュールスは都会ではなく、南カリフォルニアの郊外住宅地に暮らしている。彼女たちは精子バンクを利用してそれぞれに子供を出産した。ドナーは同一人物で、ニックが産んだ娘ジョニは18歳、ジュールスが産んだ息子レイザーは15歳になっている。この映画ではそんな家族を主人公にして、ジョニが大学進学のために家を離れるまでのひと夏のドラマが描かれる。


1961年生まれのレーヴィットと1964年生まれのチョロデンコは、ほぼ同世代であり、二人の価値観や世界観には共通するところがある。チョロデンコの監督デビュー作『ハイ・アート』(98)に登場する伝説の写真家ルーシーはレズビアンであり、ドイツ人の女優とニューヨークのアパートに暮らしていた。パーティやドラッグが欠かせない彼女たちの生活は、「都会の土壌に根づいた同性愛」の世界の一面を表しているといえる。『キッズ・オールライト』では、そんな同性愛の種が都会から郊外に植え替えられ、さらに子供を産み育てることへと発展している。

また、この家族の設定は、チョロデンコの個人的な体験とも無関係ではない。彼女も精子バンクを利用して子供を産んでいる。但し、彼女が母親になったのは数年前のことであり、個人的な体験と子供たちがすでに成長している映画の設定には大きな開きがある。チョロデンコの関心はむしろ社会に向けられていると見るべきだろう。

精子バンクがより一般的になり、非配偶者間の人工授精が急増したのは、80年代後半から90年代初頭にかけての時期だった。そして2000年代半ばあたりから〝ドナーの子供たち〟がメディアで注目されるようになったのも偶然ではない。ドナーの子供たちの第一世代が大人の仲間入りをする時期に入ったからだ。もちろん彼らがドナーとなった父親に興味を持ち、自分の目で確かめようと思うこともあり得る。

■■セクシュアリティではなく感性や心理が作用する関係■■

これらのことを踏まえるなら、『キッズ・オールライト』の設定や物語は、いまでも十分に「静かな革命的行為」、あるいはその先に起こる出来事とみなすことができる。しかし、チョロデンコの演出はそんなことを意識させない。ごく普通の家族のように主人公たちの生活を描き出していく。映画は家族の夕食の風景から始まる。

病院で医師として働くニックが帰宅し、食卓に家族が揃う。ニックはワインを傾けながら、その日職場で起こったことを語り、娘のジョニの生活態度に口出しをする。そんな姿はまるで父親のように見える。一方、自分も働きたいと思いながらニックに遠慮し、専業主婦に甘んじてきたジュールスは、母親の役割を担っている。登場人物の立場や性格をいくぶん誇張するように描いたこの場面は、50年代のホームドラマを思わせる。

しかし、息子のレイザーがドナーとなった父親のことを知りたいと思ったことがきっかけで、この家族のなかにポールという他者が様々なかたちで入り込んでくることになる。ジュールスとジョニは彼に惹かれ、ポールも彼を受け入れ、父親的な存在だったニックだけが孤立する。そして、造園業を始めたばかりのジュールスは、ポールから仕事を依頼され、自宅の庭をデザインするうちに、彼と関係を持ってしまう。

ここでレズビアンのジュールスがなぜと思う人がいるかもしれない。しかし、チョロデンコの世界ではそういうことがしばしば起こる。彼女の作品には同性愛の要素が盛り込まれてはいるが、必ずしもセクシャリティから関係が生まれるわけではない。

『ハイ・アート』は、先述した伝説の写真家ルーシーと写真雑誌の編集アシスタントに昇格した女性シドを中心に物語が展開していく。ボーイフレンドと同棲しているシドはレズビアンではない。そんな彼女がルーシーと関係を持つのは、セクシャリティではなく感性や心理が作用しているからだ。彼女はルーシーが撮った過去の写真に感銘を受け、写真という表現を通して感性を共有していく。さらにボーイフレンドが彼女の仕事や能力を評価していなかったことも影響を及ぼしている。だから、関係を持ったとしても、単純に同性愛に目覚めるということにはならない。

二作目の『しあわせの法則』(02)では、音楽プロデューサーの母親ジェーンと、精神科医の息子サムと彼の婚約者で遺伝子を研究するアレックスが一時的に共同生活を送ることになる。アレックスはそんな生活のなかでジェーンに興味を覚え、同性愛的な関係の一歩手前まで行ってしまう。それは彼女が自分の優等生としての人生に違和感を持ち、自由奔放に生きるジェーンの世界に踏み出すことで、解放されたように思い込むからだ。

そして、『キッズ・オールライト』のジュールスにも同じことがいえる。彼女は大学で建築を学んだが、建築家にはなれなかった。輸入家具のビジネスにも挑戦したが挫折した。というよりも、彼女の発言を踏まえるなら、ニックが乳母を雇うことを嫌ったため、仕事に専念できなかったと考えるべきだろう。

ニックは完璧主義者で、人をすぐに批判する。ジュールスはそんなパートナーに気兼ねをしている。ところがポールは彼女の才能を評価し、その感性をすんなりと受け入れる。だから、ポールの世界のなかで解放感を覚える彼女は、性的な関係を持つことになる。

このジュールスとポールの関係は、映画のなかで重要な意味を持っている。なぜならそれは普通の家族にも起こり得る。家庭のなかで抑圧された主婦が、その息苦しさが逃れるために不倫に走るということだ。つまりこの映画では、冒頭の夕食の風景だけではなく、全体を通して普通の家族と「静かな革命的行為」によって誕生した家族が交錯していく。チョロデンコがそんな構造を通して、双方の家族に独自の考察を加えていくところにこの映画の面白さがある。

■■普通の家族への鋭い批評■■

では、普通の家族とはどんな家族なのか。家族は時代や社会状況によって変化するものであり、本当は普通の家族など存在しない。チョロデンコがこの映画で普通の家族として表現しているのは、先ほども書いたように50年代のホームドラマに出てくる家族に近い。そこで筆者が思い出すのは、家族史や女性史を専門とする学者ステファニー・クーンツが92年に発表した『家族という神話』のことだ。

本書によれば、政治の世界で、リベラル派と保守派が家族政策について意見を戦わせるとき、「ビーバーちゃん」や「オジーとハリエット」などの50年代のホームドラマに描かれた家族がどれだけ残っているかという議論になるという。それは、一家の養い手である父親と専業主婦の母親とその子供たちからなる核家族のことを意味している。

リベラル派は、「ビーバーちゃん」タイプの家族は絶滅に向かって減少しつつあり、もはやこの流れをくい止めることは不可能だと証明しない限り、新しい家族の定義や社会政策をうちだすことはできないと考えているようである。一方保守派は、共働き家族とひとり親家庭を優遇する政策によって危機にさらされながら、伝統的家族がいまだ健在であることを示すことができれば、多くの人々に比較的安定した結婚生活や男女の性別役割分業、家庭生活を連想させる一九五〇年代のあの表面的平穏と繁栄を復活させるための政策を立法化できると信じている。つまり、どちらの側にしても、一九五〇年代の家族が今日存在していたならば、現代社会のジレンマはなかったという暗黙の了解の前提に立っているのである

しかし、50年代のホームドラマに描かれる家族と現実の家族はまったく違っていた。トッド・ヘインズ監督が『エデンより彼方に』で浮き彫りにしたように、家族は人種差別がはびこり、同性愛が病気とみなされる社会のなかで抑圧されていた。本書にも冷戦が家族に及ぼした影響についてこのような記述がある。「反共主義者たちは、ノーマルではない家庭や性行動を国家反逆を目的とした犯罪とみなした

そんな現実が忘れ去られ、表面的な家族のイメージだけが一人歩きし、伝統的な家族として定着してしまうのは恐ろしいことだといえる。『キッズ・オールライト』は、軽やかでユーモアに満ちたドラマではあるが、そこには普通の家族に対する鋭い批評が埋め込まれている。チョロデンコは、普通の家族と「静かな革命的行為」から生まれた家族を巧みに重ねることによって、主人公たちが普通の家族ではないことを明らかにするのではなく、普通の家族が幻想であることを明らかにしているのだ。

《参照/引用文献》
●『愛されるよりなお深く』デイヴィッド・レーヴィット 幸田敦子訳(河出書房新社、1991年)
●『家族という神話』ステファニー・クーンツ 岡村ひとみ訳(筑摩書房、1998年)

(初出:「キネマ旬報」2011年5月上旬号)

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