アスガー・レス 『崖っぷちの男』 レビュー
先読みできないサスペンスにユーモアを交えて描く
痛快 “交渉人” 映画
アスガー・レス監督の『崖っぷちの男』は、冒頭からいきなり私たちを緊張感と臨場感が際立つ状況に引き込む。ルーズヴェルト・ホテルにウォーカーと名乗ってチェックインした男が、部屋の窓から壁面の縁に降り立つ。男の存在に気づいた通行人は、自殺志願者に違いないと思い、足を止めて騒ぎ出す。マスコミが駆けつけ、警察が道路を封鎖する。
しかし、私たち観客には、男が自殺しようとしているのではないことがわかってくる。シンシン刑務所に服役していた主人公ニック・キャシディは、元相棒の刑事の計らいで父親の葬儀に参列したあと、見張りの警官の隙を突いて逃走する。それは偶発的な出来事のように見えるが、間もなくそうではないことが明らかになる。追跡を振り切ったニックがたどり着いた倉庫には、クレジットカードや現金などが用意されていたからだ。
逃走は計画の一部に過ぎない。そして、自殺なら他の場所でもできるが、ニックは、どうしてもルーズヴェルト・ホテルのその壁面で自殺志願者を装う必要があった。この映画は、そんな緊張と謎が絡み合う導入部から思いもよらない展開を見せ、先の読めないサスペンスを生み出していく。
その魅力は、2本の映画と対比してみると明確になる。まず1本は、F・ゲイリー・グレイ監督の『交渉人』(98)だ。この映画では、シカゴ市警でトップクラスの交渉人である主人公が、殺人と横領の濡れ衣を着せられる。四面楚歌で、このままでは刑務所送りを免れようがない彼は、最後の手段として自分を陥れたと思われる人物がいる内務局に押し入り、人質をとって立てこもる。そして、大きな賭けに出る。仲間は誰も信用できないため、別の管轄を担当するトップクラスの交渉人を指名し、高度な駆け引きのなかで真犯人を炙り出そうとするのだ。
『崖っぷちの男』のニックの立場や戦略には、この『交渉人』を思わせるところがある。ニックは、実業家イングランダーが所有する時価30億円のダイヤを移送中に横領したという罪を着せられ、服役することになった。そんな彼もかつての仲間を安易に信用するわけにはいかない。イングランダーは、ダイヤの警備や移送に常に警官を使っていた。ということは、彼を罠にはめたのも警官である可能性が高い。しかも、彼が協力した警察の内部調査にまつわる疑惑もまだくすぶっている。
そこでニックは、女性交渉人のリディア・マーサーを指名する。この映画の場合は、衆人環視の的になっているニック自身が人質の役割も果たす。彼は飛び降りると見せかけて、主導権を握る。また、最近リディアが任務に失敗し、若い警官の飛び降り自殺を止められなかったこともポイントになる。彼女はどうしても慎重にならざるをえないはずだ。しかも、周囲の信頼を失い、肩身の狭い思いをしていることが、ニックの立場に共感を覚える糸口となる可能性もある。
しかしもちろん、この映画の見所は、ニックとリディアの駆け引きだけではない。そこで思い出したいのがもう1本の映画、スパイク・リー監督の『インサイド・マン』(06)だ。この映画では、武装した4人組がマンハッタン信託銀行に押し入り、従業員と客を人質にとり、籠城をはじめる。通報を受けたニューヨーク市警は、銀行の周囲を厳重に包囲する。ところが、そんな状況で駆け引きを繰り広げるのは、犯人と警察の二者だけではない。
実はこの銀行の会長は、貸金庫のなかに誰にも知られたくない重大な秘密を隠している。そのため彼は、政治力を行使して犯人と直接、交渉しようとする。つまり、犯人と警察とこの会長の三者が駆け引きを繰り広げることになる。警察は会長の事情を知るよしもなく、犯人の狙いは現金だと考える。ところが犯人はジャンボジェットのような無理な要求を出すことで時間を稼ぎ、密かにある準備を進め、完全犯罪を成し遂げてしまう。
『崖っぷちの男』では、ニックとリディアが駆け引きを繰り広げている間に、ある計画が進行している。ルーズヴェルト・ホテルの向かいに建つビルの屋上には、ニックの弟のジョーイとその恋人アンジーが待機し、ビル内への侵入を開始する。そのビルの所有者はイングランダー。この実業家にも、知られてはならない秘密があった。『インサイド・マン』の会長の秘密と同じように、金庫に隠されたそれは、公には存在しないことになっているため、証拠もなくそれがあると主張してもらちがあかない。そこでニックは強引な手段で証拠を突きつけようとする。
映画の冒頭では、身動きもままならないホテルの壁面に立ってしまっては、なにもできないように思えた。ところが、物語が展開していくに従って、その場所が司令塔のようなものになっていく。ニックは、地上の警察の様子も視野に入れながら、ビルに侵入したジョーイに様々な指示を出す。野次馬の存在を利用することで、誰にも気づかれないように爆破を行い、さらには警察の動きを牽制してみせる。
と同時に、時間稼ぎも重要になる。ニックは偽名でチェックインし、すぐに自分の素性がわからないように、部屋に残る指紋をすべて拭き取ってから壁面に出た。しかし、最後まで素性を隠し通すつもりはない。リディアからもらったタバコで指紋が照合されることも、テレビに顔が映ることも織り込み済みだ。素性がわからなければ、リディアの協力は得られないし、敵が動き出すことで明らかになることもある。こうしてニックと警察、そしてイングランダーの三者が、スリリングな駆け引きを繰り広げていく。
この映画では、『交渉人』や『インサイド・マン』に通じる展開や図式が、ホテルの壁面が司令塔になっていくという、まったく違った状況のなかで実に巧に結びつけられている。ちなみに、プロダクション・ノートによれば、企画が誕生してから実際に映画化されるまでに10年かかったということなので、『インサイド・マン』が公開されるだいぶ前から企画そのものは存在していたことになる。
また、状況だけではなく、作品全体の印象にも違いがある。『交渉人』や『インサイド・マン』は、硬派なタッチを基調としていたが、この映画ではサスペンスにユーモアが加味されている。ビルに侵入したジョーイとアンジーのやりとりには、緊張ばかりではなく、時としておかしみが漂う。クールに見えて、さり気なくリディアを援護するドハーティ刑事もいい味を出している。そしてなんといっても、ホテルのボーイやクローク係になって、ニックに差し入れをしたり、ジョーイから荷物を受け取ったりする謎の人物の存在が目を引く。ラストで明らかになる彼の正体には、誰もがニンマリさせられることだろう。そんなユーモアの効果もあり、最終的には痛快な印象を残す作品にまとめ上げられている。
(初出:『崖っぷちの男』劇場用パンフレット)