小林啓一 『ももいろそらを』 レビュー
新聞で世界を採点していたヒロインが、新聞を作り自分を採点するとき
最近観た邦画の劇映画のなかで抜群に面白かったのが、小林啓一監督の『ももいろそらを』だ。主人公は16歳、高校一年の川島いづみ。彼女の日課は、新聞を読み、記事を採点することだ。世の中はろくでもないニュースで溢れているので、紙面にはマイナスの数字が増えていく。
ある日、いづみは大金の入った財布を拾うが、わけあって持ち主や交番に届けることなく持ち歩き、それぞれ別の学校に通う友だち、蓮実と薫と合流する。そこで財布のことを知った蓮実が舞い上がる。持ち主が一学年上のイケメン男子、佐藤光輝と判明したからだ。蓮実の下心もあって、3人は直接、本人に財布を返却する。
だが後日、いづみのバイト先に光輝が現われる。財布の金が減っていて、いづみに宛てた借用書が紛れ込んでいるのに気づいたからだ。弱みのあるいづみは、光輝の提案で、病院に入院しているある人物を元気づけるために、蓮実と薫も誘って良いニュースを集めた新聞を作ることになる。
この映画は一見すると、場の空気や即興性を重視し、長回しで登場人物たちを生き生きととらえる作品のように見える。しかし実はとんでもなく緻密に作り込まれ、その上ですべてが自然に見えるように演出されている。とてもこれが長編デビュー作とは思えない手並みだ。
いづみが財布を見つけるのは駐輪場で、それはちょうど左右に向いた矢印の上に落ちている。その財布をどうするかで彼女の運命が変わるというわけだが、実際、彼女の行動は左右に振れる。
最初は財布を持ち主に返すつもりで、学生証の住所にある邸宅にたどり着くが、表札の名前に見覚えがあり、図書館で新聞を引っ繰り返したあげく、持ち主が天下り官僚の息子であることを知り、気が変わる。そして、成り行きで借用書を受け取る立場になる。
人間関係をめぐる駆け引きや建前と本音に対する視点も興味深い。
たとえば、蓮実と薫を新聞作りに誘うのは、いづみではなく光輝の役目になるが、光輝が最初にいづみに語った事情と、蓮実や薫に語るそれは同じではない。いづみには、入院しているカズミを元気づけたいというロマンチックな事情だと説明する。しかし、蓮実と薫には入院している親友の男の子を元気づけたいと説明する。面白いのは、そのどちらも嘘とは言い切れないことだ。
さらにこの映画では、思わぬところで本音が飛び出す。異なる場面で、異なる人物が、それぞれにまさかいづみがその新聞を作ったとは知らずに、正直で辛辣な意見を語る。彼女は平静を装いつつも、内心ではかなりグサリときている。
そうした仕掛けは、もちろん散発的なユーモアを生み出すためにあるわけではない。最後にしっかりと一点に集約されていく。鍵を握るのは、「ゴメン」という謝罪の言葉といえるかもしれない。この映画では、謝罪は相手の要求から始まる。たとえば、光輝がいづみのバイト先に現われ、金を返すように詰め寄ったとき、めんどくさくなった彼女は自首すべく交番に向かう。しかし、自分もわけありな光輝が交番の手前で彼女を止める。そのときすかさず「ゴメンは」の要求が出る。
それらを踏まえるならこれは、常に斜に構えたいづみが、偶然の成り行きのなかで、いつしか自分自身を採点することになり、ごく自然に謝罪の言葉が口をつくまでを描く物語といってもいいだろう。
そしてもうひとつ、そんな物語を際立たせているのが映像だ。舞台は郊外、あるいは郊外化が進行する地方都市だが、特定はされない。透明感のあるモノクロで、しかも被写界深度を浅くとり、背景をぼかすことによって、同じような世界に暮らす誰もが共有できる物語になっている。