ウェス・アンダーソン 『ムーンライズ・キングダム』 レビュー

Review

決して取り戻せない時間
もはや存在しない場所

ウェス・アンダーソン監督の『ムーンライズ・キングダム』では、12歳のサムとスージーの逃避行が描かれる。映画の舞台は、1965年、ニューイングランド沖に浮かぶ全長26kmの小島・ニューペンザンス島だ。

裕福ではあるが、厳格な父親や身勝手な母親に反感を覚えるスージーと、里親に育てられる孤児で、ボーイスカウトで仲間外れにされているサム。それぞれに孤立するふたりは1年前に偶然出会い、文通で親しくなり、駆け落ちを決行する。それに気づいた親や警官、ボーイスカウトの隊長と子供たち、福祉局員が追跡を開始するが、島には嵐が迫っている。

これまでウェス・アンダーソンの作品にはいまひとつ馴染めないところがあったが、この新作には冒頭から引き込まれ、心を動かされた。

緻密に作り上げられたセットや計算されつくしたカメラワーク、多彩で効果的な音楽、簡潔で洞察に富む台詞、ユーモアを散りばめたドラマなど、一見これまでと変わらないアンダーソンのスタイルのように見える。だが、そうした細部と全体の関係が違う。


筆者の目から見ると、これまでの作品では、細部が統合されたひとつの世界よりも、ひとつの世界を構成するそれぞれの細部が印象に残っていた。しかしこの映画では、中盤に至る以前に完全にひとつの世界に引き込まれ、その世界や物語は最終的に“ムーンライズ・キングダム”という一点に集約される。

アンダーソンがこの映画で細部と全体の関係を強く意識していることは、冒頭で最初に流れる音楽から察することができる。それは、ベンジャミン・ブリテンの《青少年のための管弦楽入門》であり、パーセルの主題が、木管、金管、弦、打楽器などに編成を変えて提示される。

The Young Person's Guide To The Orchestra, Op. 34: Themes A-F by Leonard Bernstein on Grooveshark

解説とともにオーケストラの細部と全体の関係を学ぶ音楽から始まるこの映画では、細部がひとつの世界に統合されていくことが示唆され、実際にその通りになる。計算されたカメラワークやキャラクターの感情、ドラマのリズムなどが見事にシンクロし、細部を見るこちらの目が自然に全体をとらえている。

さらにこの映画では、聖書やシェイクスピアの世界の引用が、細部と全体の橋渡しに貢献している。サムとスージーは、教会で上演された『ノアの方舟』がきっかけで出会う。スージーはこの劇でカラスの役を演じ、ボーイスカウトの活動で劇を観たサムの目にとまる。そして、やがて彼らの世界である小島も、嵐の襲来で洪水に見舞われることになる。

島に嵐とくればもちろん『テンペスト』も思い浮かぶ。映画の冒頭では、ブリテンの《青少年のための管弦楽入門》が終わると、ボブ・バラバン扮するナレーターが現われ、私たち観客に三日後に嵐が来ると告げる。いささか強引ではあるが、彼がエアリエルで、監督のアンダーソンがプロスペローで、魔法を題材にした本ばかり読んでいるスージーがミランダだといってもいいだろう。また、音楽でブリテンの歌劇《真夏の夜の夢》が使用されていることにも注目しておきたい。

そんな物語の力も借りて、細部はひとつの世界になり、最終的に一点に集約される。サムとスージーが目指した“ムーンライズ・キングダム”は、決して取り戻すことができない貴重な時間、もはや存在しない大切な場所を意味している。