真利子哲也 『NINIFUNI』 レビュー



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Review

不可視のものがどこでもない場所から私たちを見返している

実際の事件に着想を得た真利子哲也監督の中編『NINIFUNI』では、対極の立場や環境にあるような人物が交差する。その空間をどう解釈するかで、作品の印象も変わってくる。

便宜的に田中と名づけられた若者は、もうひとりの仲間と強盗を働く。その後、奪った車でひとり国道を彷徨う。やがて日が落ちると誰もいない浜辺に車を止め、窓に目貼りをし、練炭に火をつける。

その翌朝、ももいろクローバーが、プロモーションビデオの撮影のために浜辺に到着する。スタッフが浜辺を舞台に変え、彼女たちの曲が流れ出す。そして、田中が横たわる車からも、遠くに彼女たちが歌い踊る姿が見える。


田中はいわば不可視の存在だ。国道を彷徨っていても、コンビニで買い物をしていても、郊外の空き地に佇んでいても、浜辺で波と戯れていても、誰も気にとめるものはいない。国道を走りすぎる車がたてる轟音は、彼の存在をあっさりとかき消していく。そこには、自己と他者の関係も、見るものと見られるものの関係も、なにもない。

一方、ももいろクローバーは見られることを前提としてそこに居る。彼女たちは、メイキングのカメラに向かってはじけるように自己紹介し、PVの撮影では寒空を吹き飛ばすようなパワーと輝きを放つ。

不可視の存在としての(あるいは死者としての)田中とアイドルが交差することは、確かに強烈なコントラストを生み出す。しかし、それをこの映画が放つインパクトとイコールで結ぶことはできない。

車のなかで田中が自殺し、翌朝、それに気づくことなくすぐそばでPVの撮影が行われたというだけなら、偶然の残酷なドラマということになる。しかし実際にはそうではない。

翌朝、浜辺に最初に現われるのは、ももいろクローバーではない。まずPVのプロデューサーである加藤が到着する。彼は田中の車に気づくが、これといった反応を示すこともなく、PVの撮影を進める。つまり田中は不可視のままにされる。

あるいは、設定はだいぶ異なるが、ここでレイモンド・カーヴァーの「足もとに流れる深い川」を思い出してみるのもよいかもしれない。泊りがけの釣りに出かけた夫と友人たちは、川で少女の水死体を見つけるが、釣りの機会をふいにしたくないために、死体を流されないようにして、帰りに警察に通報する。そして、妻がその事実を知ると、夫婦の間に波紋が広がっていく。

筆者にとってこの映画のインパクトは、加藤の行動が私たちのなかに何の波紋を起こすこともなく、先述したコントラストにあっさりと呑み込まれてしまうところにある。ある意味で加藤の行動は現代社会を象徴しているといえる。

私たちは不可視のものを気にもとめず、見えるものだけで構築された世界を生きようとしている。この映画の結末が物語るように、田中を可視化するのは、人間の目ではなく、監視カメラだ。強盗を記録した映像が流通することで、田中ははじめて可視の存在になる。

しかしそれは、人間の目によって可視化された存在とは違う田中であり、もうひとりの田中、不可視の田中がどこでもない場所から私たちを見返しているのだ。