シュエ・シャオルー 『海洋天堂』 レビュー



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Review

海亀になることは、他者の世界を受け入れることでもある

『海洋天堂』は、チェン・カイコー監督の『北京ヴァイオリン』の脚本家として注目を集めたシュエ・シャオルーの監督デビュー作だ。この作品は、彼女が14年間つづけた自閉症支援施設でのボランティア活動が元になっているという。

主人公は、チンタオの水族館で設備技師として働くワン・シンチョン(ジェット・リー)と、21歳になったばかりの自閉症の息子ターフー(ウェン・ジャン)だ。シンチョンは、ターフーが7歳のときに妻を亡くし、それ以来ひとりで息子の面倒を見てきた。

そんなシンチョンは、自分が末期の肝臓がんで余命いくばくもないことを知る。息子の未来を案じた父親は、彼がひとりで生きていくための土台を築くために奔走するが…。


シンチョンはターフーに、買い物のときの金の払い方やバスの乗り方などを教えこんでいく。ひとりで生きていくための土台を築くということは、健常者の世界に順応させていくことを意味する。しかし、一方的に順応させるだけでは、自閉症者という他者の生の可能性を限定することになるだろう。

この映画では、そんな他者の世界が海という空間で表現される。ターフーは水族館の水槽のなかを自由に泳ぐ。水槽のガラスを隔ててそんな息子の姿を見るシンチョンは、「魚に生まれていればよかったのに」とつぶやく。

シンチョンが息子を健常者の世界に順応させるためには、彼もまた他者の世界を受け入れ、踏み出さなければならない。そのことが、このドラマに深みとダイナミズムを生み出していく。

シンチョンにとって海に順応することは、精神的にも身体的にも容易なことではない。実はこの映画は、海に浮かぶボートから、足に重石をつけたシンチョンとターフーが飛び込むところから始まる。

将来を悲観したシンチョンは、息子と心中しようとする。ところが、ターフーにとって海は自分の世界であり、死ぬはずもない。この冒頭から、海は父と子にとって対照的なものとして存在している。

シンチョンにとって海は死の象徴だ。ドラマの途中では、泳ぎが得意だった彼の妻が海で亡くなったことが明らかにされ、死との結びつきがさらに強調される。

シンチョンは残された力を振り絞って、自ら海亀になろうとする。それは、海を生の空間に変え、ターフーと対等になることを意味している。

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