想田和弘 『Peace』 レビュー



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Review

瞬間の中に大切なものが見える

想田和弘監督の『Peace ピース』(10)は、『選挙』(07)、『精神』(08)につづく〝観察映画〟の最新作だが、その冒頭には「第3弾」ではなく「番外編」の文字が浮かび上がる。

この作品の出発点は、想田監督が韓国・非武装地帯ドキュメンタリー映画際から「平和と共存」をテーマにした短編を依頼されたことだった。想田監督の独自のアプローチである観察映画では、あらかじめテーマを決めることなく、先入観を排除して被写体にカメラを向ける。テーマは撮影や編集を通して後から見えてくるものなのだ。

だから彼は依頼を断るつもりだったが、岡山にある妻の実家に帰って、義父が世話する野良猫たちを目にして気が変わった。そして、短編の予定だった映画はいつしか75分の長編になっていた。


『Peace』は野良猫の世界から始まる。想田監督の義父・柏木寿夫は自宅の庭で近所の野良猫たちに餌をやりつづけている。ところが最近、よそ者の「泥棒猫」が餌を目当てに庭に侵入してくるようになり、猫の共同体の緊張が高まっている。なるほどそこには「平和と共存」というテーマに結びつきそうな状況がある。しかし、想田監督の関心はテーマに縛られることなく広がっていく。

縄張りをめぐって揺れる猫の世界を見つめる一方で、三人の人物の日常にカメラを向ける。柏木寿夫は養護学校を定年退職した後、障害者や高齢者を乗せる福祉車両を運転している。彼の妻の柏木廣子は、障害者や高齢者の自宅にヘルパーを派遣するNPOを運営している。彼女は週に一度、生活支援のために路地裏にある橋本至郎のアパートを訪ねる。91歳で末期の肺がんの橋本は、身寄りもなく、ネズミとダニだらけの部屋に暮らしている。もちろんこれまでと同じように、この映画にもナレーションやテロップ、音楽はない。

観察映画の世界に入るためには、観客も先入観を取り払わなければならない。たとえば、想田監督の著書『精神病とモザイク』に盛り込まれた監督と『精神』に登場した患者たちとの対話では、映画に対する厳しい意見が目立っていた。患者の本当に苦しんでいる部分、闇の部分が映し出されていないというのだ。もし『精神』が精神病の実態に肉薄しようとした作品であるなら、確かにその一面しかとらえていないといえる。しかし、観察映画から見れば、そういう作品は逆に被写体を最初から精神病という文脈に押し込め、人物の一面だけを切り取り、掘り下げていることになる。

想田監督は撮影する前にリサーチをしない。だから、カメラを向けた瞬間には、被写体の一面ではなく存在そのものと向き合う。その積み重ねが、題材を超えた普遍的な世界に繋がっていく。『選挙』では、組織やシステムに順応していく人々の姿が、『精神』では、それらを受け入れられず、周縁に追いやられた人々の姿が浮き彫りになる。それは『Peace』にも当てはまる。というよりも、この番外編は、観察映画の本質を明らかにしているようにすら見える。

この映画を観ながら筆者が思い出していたのは、哲学者マーク・ローランズの『哲学者とオオカミ』のことだ。本書では、オオカミと暮らした経験を通して、人間であることの意味が掘り下げられる。ローランズは、サルを人間が持つ傾向のメタファーとして使う。たとえば、「サルとは、生きることの本質を、公算性を評価し、可能性を計算して、結果を自分につごうのよいように使うプロセスと見なす傾向の具現化だ」。だからこそサルは、知能を発達させ、文明化することができた。では、サルとオオカミはどこが違うのか。

オオカミはそれぞれの瞬間をそのままに受け取る。これこそが、わたしたちサルがとてもむずかしいと感じることだ。わたしたちにとっては、それぞれの瞬間は無限に前後に移動している。それぞれの瞬間の意義は、他の瞬間との関係によって決まるし、瞬間の内容は、これら他の瞬間によって救いようがないほど汚されている。わたしたちは時間の動物だが、オオカミは瞬間の動物だ

この記述はふたつの意味で興味深い。ひとつは観察映画を理解するヒントになる。テーマを決め、リサーチをし、背景や状況を踏まえたうえで被写体をある文脈に押し込め、結果を導くというアプローチは、時間に支えられている。これに対して観察映画は、瞬間を極力そのままに受け取ろうとする姿勢だといえる。だからこそ、観客も映像を瞬間として受け取る必要がある。

さらにこの『Peace』では、想田監督が自身の観察を通して見出したテーマもまた、時間と瞬間に関わっている。この映画に登場する野良猫たちも三人の人物もそれぞれに厳しい生活を強いられている。一匹の猫は前脚の一方が折れているうえ、腎臓が悪いために定期的に点滴を打たなければならない。泥棒猫の外見はこれまで苦労してきたことを想像させる。

柏木寿夫は、惰性と謙遜しつつ、割に合わない福祉有償運送をつづけている。柏木廣子は、福祉予算の削減で頭を抱えながらも、NPOをやりくりしている。橋本至郎は、肺がんでありながらタバコのPeaceを吸うのを唯一の楽しみにしている。観客は、彼のなかに突然、戦争体験が蘇る場面に心を動かされるかもしれない。しかしそれ以上に印象に残るのは、シャツとネクタイで身嗜みを整え、来客を外まで見送る姿だ。

筆者には、猫も人間も過去や未来に縛られることなく、瞬間を受け入れ、生きているように見える。ローランズは、サルの幸運が尽きたときに、人生で一番大切なものを発見すると書いている。この映画に私たちが不思議な安らぎを覚えるのは、瞬間のなかに大切なものが見えるからだろう。

《参照/引用文献》
●『精神病とモザイク タブーの世界にカメラを向ける』想田和弘(中央法規、2009年)
●『哲学者とオオカミ 愛・死・幸福についてのレッスン』マーク・ローランズ 今泉みね子訳(白水社、2010年)

(初出:「キネマ旬報」2011年7月下旬号)

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