アンドレア・セグレ 『ある海辺の詩人―小さなヴェニスで―』 レビュー

Review

単に社会的な要素を加味することと、すべて見えていながら滲ませるだけに止めることの違い

アンドレア・セグレ監督の劇映画デビュー作『ある海辺の詩人―小さなヴェニスで―』の舞台は、ヴェネチアの南、ラグーナ(潟)に浮かぶ漁港キオッジャだ。物語は、町の片隅に店を構える“パラディーゾ”というオステリアを中心に展開していく。

ヒロインは、その店で働くことになった中国系移民のシュン・リー。これまで縫製工場で働いていた彼女は、戸惑いながらも常連の男たちの好みを覚え、次第に場に溶け込んでいく。常連客のひとり、語呂合わせが得意なことから“詩人”と呼ばれる老漁師ベーピは、そんな彼女に関心を持ち、言葉を交わすようになる。

ベーピはもう30年もこの漁港に暮らしているから、地元民のように見えるが、実は彼もまた故郷を喪失したディアスポラだ。彼の故郷はチトーの時代のユーゴスラビアで、おそらくはチトーの死後、解体に向かうユーゴを離れ、キオッジャに流れてきたものと思われる。


シュン・リーや常連客たちの会話からは、冷戦からグローバリゼーションに至る時代の流れがさり気なく浮かび上がる。ベーピの親友で、漁師から年金生活に入ったばかりのコッペは、父親も祖父もみな漁師だったという。共産主義の世界を生きたベーピは、もはや父親のこともよく思い出せない。シュン・リーは中国の海辺の町で育ち、家業は漁師だったが、彼女は工場労働者になった。

この映画では、ともに詩を愛し、詩心を持つシュン・リーとベーピというディアスポラの心の交流が、ゆっくりと私たちの胸に染みてくるような叙情的なスタイルで描かれる。青い海と水平線の向こうに浮かび上がる雪をたたえた山々。漁港を取り巻く風景も非常に美しい。

しかし、見所はそれだけではない。4月に公開になるエマヌエーレ・クリアレーゼ監督の『海と大陸』といい、この作品といい、最近のイタリア映画には、日常のなかに社会の歪みがしっかりと描き込まれている。

たとえば、この映画を観て、ナポリを拠点にする犯罪組織“カモッラ”を題材にしたマッテオ・ガッローネ監督の『ゴモラ』を連想する人は少ないだろう。しかし、二本の映画から浮かび上がる世界は地続きだといえる。

シュン・リーは、『ゴモラ』に描かれていたような中国系移民の労働者のひとりであり、年季奉公を終えて中国から息子を呼び寄せるまでは、組織のボスの指示に従わなければならない。

常連客のなかでもあまり素行のよろしくないデヴィスと彼の仲間は、水牛の汚染に絡んで南部人を蔑視するような発言をする。そこには、『ゴモラ』レビューに書いたような南北問題が垣間見える。また、汚染との因果関係は定かではないが、彼らの頭のなかに『ゴモラ』で描かれたような犯罪組織による有害廃棄物の不法投棄という現実があることは間違いないだろう。

このドラマは、社会や人間に対する鋭い洞察に基づいているが、それも当然といえる。監督のアンドレア・セグレは、社会学の研究者でもあり、10年以上にわたって移民問題についての調査・研究に取り組み、ドキュメンタリー集団“ZaLab”の創設者として精力的に活動している。

セグレが共同監督した『Como un uomo sulla terra / Like a Man on Earth』(08)では、リビアから地中海を渡ってイタリアにたどり着いた難民たちが苦難の道程を自ら語り、この『ある海辺の詩人』のあとに発表された『Mare chiuso / Closed Sea』(12)では、イタリアとリビアの間で結ばれたアフリカ難民をめぐる協定の実態が暴かれる。また、彼が単独で監督した『Il sangue verde / The Green Blood』(10)では、2010年に南部カラブリア州ロサルノで起こったアフリカ系労働者による暴動の背景に迫っている。その労働者たちは、南部の犯罪組織のひとつ“ンドランゲタ”に搾取されていたという。

ちなみに、タヴィアーニ兄弟は、『塀の中のジュリアス・シーザー』でシェイクスピアを演じる囚人たちについて、プレスで以下のように語っていた。

後に我々は、彼らがカモッラ、ンドランゲタなどのマフィアに属していた重犯罪者たちで、重警備棟に収容され、ほとんどが終身刑に服していることを知りました

この『ある海辺の詩人』では、シュン・リーとベーピの交流が、シュン・リーが属する組織とベーピが属するコミュニティに波紋を広げていく。同じように見えるドラマではあっても、物語にアクセントとして社会的な要素を盛り込んでいるのと、背景にある社会がしっかりと見えていながら、それを滲ませるだけにとどめているのとでは全然違う。だからこの映画は、私たちに忘れがたい印象を残すのだ。