キム・グエン 『魔女と呼ばれた少女』 レビュー

Review

異文化や他者に対する強い関心から紡ぎ出される少女の神話的な物語

キム・グエン監督の『魔女と呼ばれた少女』では、アフリカのコンゴ民主共和国を舞台に、政治学者P・W・シンガーが『子ども兵の戦争』で浮き彫りにしているような子供兵の世界が描き出される。

アフリカの子供兵を題材にした作品とえいば、ジャン=ステファーヌ・ソヴェール監督の『ジョニー・マッド・ドッグ』が記憶に新しい。だが、この二作品は、作り手の視点や表現がまったく違う。

『ジョニー・マッド・ドッグ』の原作は、コンゴ共和国出身のエマニュエル・ドンガラが、自身の体験をヒントに書いた同名小説だ。ドキュメンタリーの作家として活動してきたソヴェール監督は、その舞台をリベリアに変更し、15人の元子供兵を起用し、非常にリアルなドラマを通して、ホモソーシャルな連帯関係や家族を奪われる痛み、ほとばしる憎しみを描き出している。

キム・グエン監督のアプローチは、それとはまったく異なっている。プレスに収められた彼のインタビューでは、映画の出発点が以下のように説明されている。

10年前に、神の生まれ変わりと自認し、反政府軍を率いていると語るビルマの双子の少年兵をニュースで見て、現代の神話性に惹かれたのが、脚本の発端です


そんな発端からアフリカの子供兵にたどり着いたこの映画では、リアルであると同時に、神話的、神秘的、象徴的な世界が切り拓かれていく。このグエン監督のイマジネーションは、おそらくは彼がカナダのケベック州出身であることと無関係ではない。

カナダは世界に先駆けて国の政策として多文化主義を導入した。その政策には二本の柱があり、一本がケベック州と残りのカナダがひとつの国家としてどのように存在すべきなのかという課題に答えるものだった。ちなみに、もうひとつの課題は、他の文化集団をどう位置づけるかということだ。

そんな課題を克服するためにカナダ独自の多文化主義が生まれた。アメリカの多文化主義が「るつぼ」モデルなら、カナダのそれは「モザイク」モデルとされる。簡単にいえば、同化するのではなく、違いが尊重されるのだ。

それはよいことのようにも思えるが、問題もはらんでいる。異なる見解に対して、どちらも同等の価値があるとみなすため、よりよいものを選択できなくなるような相対主義が蔓延するからだ。レジナルド・W・ビビーは『モザイクの狂気』でそれを以下のように表現している。

我々は、可能な選択による得失を注意深く調べ、それから、勇気を持って実際に何が「最善」であるかを提案するよりもむしろ、代わりに安易な道を取る。我々は宣言する――多元主義のお墨付きをもって――教養があり、啓発された、洗練されたカナダ人は、ほぼ何事にも寛大であり、何事に関してもめったに立場を明らかにしない人々であることを

ケベック州出身の監督は、そんな現状をそのまま描くのではなく、イマジネーションによって視野を広げ、相対主義を克服しようとしているように見える。

たとえば、ドゥニ・ヴィルヌーブ監督の『灼熱の魂』とクロード・ガニオン監督の『カラカラ』は、設定もスタイルも雰囲気もまったく違った作品のように見えるが、根底では繋がっている。

『灼熱の魂』は、母親の死と遺言書の開示から物語が始まり、息子と娘が封印された母親の足跡をたどり終えたとき、彼らは相対主義に逃げることが不可能な、複数の文化、複数の他者の境界に立たされている。

『カラカラ』では、親友の死をきっかけに自分の人生がいかに空虚であったかを思い知った元大学教授が、ケベックから沖縄を訪れ、日本人の主婦が抱えるトラブルに巻き込まれていくうちに、他者を受け入れ、異文化を通して新たな人生を歩み出す。

ちなみに、ガニオン監督は沖縄を舞台に映画を作ったことについて、プレスのインタビューで以下のように語っている。

これが理由のすべてではありませんが、沖縄の歴史に共感をおぼえます。ケベックも沖縄も侵略された過去を持ち、大きな国の一部になってからも独自の文化を守ってきました。その経験が人々の気質を形づくっているように思います。沖縄人と日本人とでは、日本に対する見方が異なります。同じ日本国民でありながら、違う存在なのです。ケベック人の多くがカナダとの違いを感じているように、沖縄の人々は違いを感じています

キム・グエン監督も『魔女と呼ばれた少女』で、単に子供兵の問題や現実を描こうとしているだけではない。この映画でまず際立っているのは、子供兵を呪縛するホモソーシャルな連帯関係ではなく、他者を見つめる眼差しから浮かび上がる興味深い人物像だ。

水辺の村から拉致され、反政府軍の兵士にされた12歳のヒロイン、コモナは、亡霊が見えるようになり、亡霊に導かれるように死線に活路を見出す。その結果、彼女は特別な力を持つ存在とみなされ、“魔女”と呼ばれるようになる。

さらに、コモナと絆を深めていく先輩の子供兵マジシャンが、アルビノであるところにも、監督の他者に対する強い意識が表れている。マリ出身のアルビノのシンガー、サリフ・ケイタの『ラ・ディフェロンス』レビューで書いたように、アフリカのある地域では、アルビノの赤ん坊は、母親が白人と関係を持ったと疑われたり、不吉の前兆とみなされたりして殺されてしまう。また、アルビノから作った薬によって不思議な力が得られるという伝承などもあり、アルビノの子供たちが誘拐され、殺害されることもある。

だから、このマジシャンも、ある種の神秘性を漂わせると同時に、悲しみの色に染められている。コモナとマジシャンはそれぞれに孤立した他者であり、グエン監督は彼らの視点を軸に独自の世界を切り拓いていく。

『灼熱の魂』や『カラカラ』と同じように、この映画も死が起点になり、他者や異文化の壁を乗り越えようとする。物語は、コモナが反政府軍の兵士から、自分の手で両親を殺すことを強要されるところから始まる。そこから彼女が引き込まれていくのは、過酷な現実の世界であると同時に、内面の世界でもある。なぜなら映画のラストを見たときに、私たちはこれが、ひとりの少女が地獄めぐりを経て喪に服すまでを描いた神話的な物語だったことに気づくからだ。

《引用/参考文献》
●『モザイクの狂気』レジナルド・W・ビビー 太田徳夫・町田喜義訳(南雲堂、2001年)