トマス・ヴィンターベア 『光のほうへ』レビュー
機能不全家族から生まれる負の連鎖を断ち切るために…
トマス・ヴィンターベアの新作『光のほうへ』は、デンマークの若手作家ヨナス・T・ベングトソンの小説『サブマリーノ 夭折の絆』(ACクリエイト刊、2011年5月31日)の映画化だ。
舞台はデンマークのコペンハーゲン。プロローグでは、主人公兄弟の少年時代の体験が描かれる。アルコール依存症の母親と暮らす兄弟は、育児放棄している母親に代わって年の離れた弟の面倒を見ているが、その弟はあまりにもあっけなく死んでしまう。
そして、大人になった兄弟それぞれの物語が綴られていく。彼らはいつからか別々の人生を歩むようになったらしい。兄は人付き合いを避けるように臨時宿泊施設に暮らし、怒りや苛立ちを酒で紛らしている。弟は男手ひとつで息子を育てているが、麻薬を断ち切ることができない。そんな兄弟は母親の死をきっかけに再会し、心を通わせようとするが…。
この映画では、心に深い傷を抱えたまま大人になり、自己を肯定できずに社会の底辺でもがく兄弟の生き様が、こちらが息苦しくなるほどリアルに描き出されている。彼らは負の連鎖を断ち切ろうとすればするほど深みにはまっていく。
映像には力があるし、俳優たちの演技から兄弟双方の視点を対置する構成まで作品の完成度も高い。しかし、ヴィンターベアの作品だと思うと物足りなさを感じる。この映画には、彼の感性や表現力を生かせるようなシチュエーションがほとんど見当たらない。
『セレブレーション』(98)では、父親の還暦を祝う宴の席が家族の様々な愛憎がせめぎ合う修羅場と化していく。『ディア・ウェンディ』(05)では、負け犬として生きる若者たちで結成された集団が、メンバーの力関係が変化することによって、闇の世界から現実の世界に引き出されていく。
集団のなかで、心の傷やコンプレックスを抱えた個人は明確な意思にもとづいて行動するとは限らない。集団のなかの様々な要因や関係に左右され、自己を制御できなくなるかもしれない。ヴィンターベアは、そんなどちらにころぶかわからないような、人間の心理の曖昧さを巧みに描き出してきた。
それは彼がコミューンで生まれ育ったことと無関係ではないだろう。かつて筆者がインタビューしたとき、彼は『セレブレーション』に描き出される集団心理について以下のように語っていた。
「ぼくはこの心理ゲームを楽しんでいた。人間が見せる不条理な行動というのは、ぼくの映画のテーマのひとつになっている。自慢するわけではないけど、ぼくは人の心理を読むことが得意だ。それは一軒の家に12人の人間が暮らすような共同体で育ったからかもしれない。 子供のころのぼくは、大人の争いをとても怖れていて、彼らの行動や心理を観察するようになった。そのおかげで、顔は笑っていてもいつ争いが起こるか予測することができるようになった。人間というのは、まずい話を聞いて表面的には悲しげな表情を浮かべていても、中身は違う。もっと無責任で不条理なものなんだ」
『光のほうへ』にも、負の連鎖を断ち切ろうとして逆に深みにはまっていくというような心理は描き出されている。しかし、それはほとんど個人に内面に限られている。
たとえば、兄はかつてアナという女性と生活し、彼女は妊娠もしたが、結局中絶して彼のもとを去った。弟は2年前に妻を交通事故で亡くし、ひとりで息子を育てることになった。そうした事実は示唆されるが、子どもを欲しがっていた兄とアナの関係がなぜ破綻をきたしたのか、弟の妻がなぜ事故に遭い、彼がいつどのように麻薬に依存するようになったのかは、私たちの想像に委ねられている。
ヴィンターベアの本領が発揮されるのは、本来ならその想像に委ねられている部分だろう。そこには人間が見せる不条理な行動が見えてくるはずだからだ。
●『光のほうへ』(2010):6月4日よりシネスイッチ銀座ほか全国順次ロードショー!
●トマス・ヴィンターベア・インタビュー(『セレブレーション』)
●トマス・ヴィンターベア・インタビュー(『ディア・ウェンディ』)
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