ダニー・ボイル 『トランス』 レビュー
記憶の迷宮でせめぎ合う男女の欲望
ダニー・ボイル監督の『トランス』は、白昼のオークション会場からゴヤの「魔女たちの飛翔」が強奪されるところから始まる。40億円の名画を奪ったのは、密かにギャングと手を組んだ競売人のサイモンだったが、なぜか途中で計画とは違う行動に出た彼は、ギャングのリーダーであるフランクに殴られ、絵画の隠し場所の記憶を失ってしまう。
そこで催眠療法士のエリザベスが雇われ、記憶を取り戻そうとする。しかし、そのエリザベスには秘密があり、療法を受けるサイモンの頭のなかでは、主人公たちを翻弄するように記憶が迷宮と化していく。
自分を取り巻く世界を思い通りにしたいという欲望は誰もが持っているものだが、それにとらわれすぎれば深刻なトラブルに巻き込まれる。ダニー・ボイルはこれまで様々な設定でそんなドラマを描き出してきた。
監督デビュー作『シャロウ・グレイヴ』(95)に登場する三人の男女は、洒落たフラットをシェアし、思い通りの生活を送っている。ところが、新しい間借り人の死体と大金を目の当たりにして運命が変わる。密かに死体を埋め、大金を横取りしたまではよかったが、三人の信頼関係は崩れ、フラットは修羅場と化していく。
『ザ・ビーチ』(00)の主人公がたどり着くタイの孤島のコミュニティは、最初は楽園に見える。しかし、サメに襲われて負傷した仲間が追い出されるエピソードが物語るように、彼らは見たくないものは排除して楽園を守ろうとする。そんな欺瞞に満ちたコミュニティは、やがて崩壊することになる。
『127時間』(10)でロッククライミングを楽しむ主人公は、必ずしも自然と一体になっているわけではない。マウンテンバイクに装着したビデオカメラで快走を記録し、ヘッドフォンで好きな音楽を聴きながら岩壁を踏破する彼は、自分が望む楽園を作り上げている。しかしそんな世界は、過酷な自然の力によって打ち砕かれる。
ボイルのこの新作では、そうした欲望がこれまでとは異なるアプローチで、絵画を絡めて象徴的に表現されている。サイモンはなぜ記憶の迷宮に引き込まれるのか。その発端は、ゴヤの「裸のマハ」と無関係ではない。実際、映画には「魔女たちの飛翔」だけではなく、「裸のマハ」も出てくる。
ゴヤはこの作品で、西洋美術で初めて女性の陰毛を描いたといわれる。それ以前はキリスト教や父権制社会のタブーがあり、捩じ曲げられた女性像が流通していたわけだ。
ところが、サイモンにとってはそんなゴヤは冒涜者ということになる。彼は、陰毛のない女性像に異様な執着を持ち、陰毛を剃った女性を好むからだ。それは、女性と対等な関係を築くのではなく、自分の思い通りにしたいという欲望を示唆している。実際、彼は独占欲が満たされなければ暴力的になる。
これに対して、エリザベスは、催眠療法という魔術を使う魔女にたとえることができる。だが、彼女の企みにも狂いが生じ、フランクが絡む奇妙な三角関係に発展する。
この関係の興味深いところは、サイモンとフランクのコントラストにある。本来ならギャングであるフランクがマチズモ(男性優位主義)を体現しているはずだが、ドラマの展開のなかでそれが逆転していく。フランクは、記憶の迷宮という腕力だけではどうにもならない世界のなかで、エリザベスに魅了されかけているからだ。
ゴヤの「魔女たちの飛翔」では、魔女たちに身を委ねている人物と、魔女から逃れようとしている人物が描かれている。この映画のラストで、フランクはエリザベスからそんな二者択一を提示されていると解釈することもできるだろう。
ボイルは、現実と記憶が複雑に入り組むドラマとゴヤの絵画の世界を巧妙に結びつけ、世界を思い通りにしたいという欲望をめぐってせめぎ合う男性と女性の力関係の変化をスリリングに描き出している。
(初出:『トランス』劇場用パンフレット、若干の加筆)