デブラ・グラニック 『ウィンターズ・ボーン』 レビュー
ホモソーシャルな連帯とミソジニー、そしてもうひとつのスピリット
アメリカのなかでアパラチアやミズーリ州オザーク地方に暮らす人々は、“ヒルビリー”と呼ばれ蔑まれてきた。注目の新鋭女性監督デブラ・グラニックがミズーリ州でオールロケを行い、現地住民も含むキャストで撮り上げたこの『ウィンターズ・ボーン』には、彼らの独自の世界が実にリアルに描き出されている。
心を病んだ母親に代わって幼い弟と妹を引き受け、一家の大黒柱になることを余儀なくされた17歳の娘リーに、さらなる難題がふりかかる。とうの昔に家を出た麻薬密売人の父親が逮捕されたあげく、土地と家を保釈金の担保にして行方をくらましてしまったのだ。彼女は家族を守るためになんとか父親を探し出そうとするが…。
ヒルビリーのコミュニティの中核をなしているのは、この映画に登場するミルトン一族のように、結束の固い大人数の弧絶したクラン(血族)だ。彼らは一般社会の規範に縛られるのではなくクランに従い、峻険な山間部で伝統や独立心を頑なに守りつづける。もしその地域のなかに彼らの掟を破るような者がいれば、ただではすまないだろう。
リーにはそんなクラン中心の集団意識が壁となる。もっと具体的にいえば、壁になるのは、男同士のホモソーシャルな連帯関係、そしてそれと表裏一体になっているミソジニー(女性嫌悪)の伝統だ。グラニックがそれを意識していることは、前半部のさり気ないエピソードから察せられる。
リーは父親を探すために州境まで行きたいが、車も金もない。そこで、同世代の親友ゲイルを訪ね、州境まで連れていってほしいと頼む。ゲイルは夫にお伺いをたてるが、すげなく断られる。理由もわからない。そのとき、リーとゲイルのあいだにこんな会話がある。「情けないわね、何でも夫の言いなりなんて」。「結婚すればわかる」。「あんたも前はもっと強い女だったのに」
ここでホモソーシャルな連帯やミソジニーがどのようなものであるのかを確認しておくのも無駄ではないだろう。同じようにヒルビリーの世界を背景にしたマイケル・C・ホワイトのミステリー小説『夢なき者たちの絆』では、クランにおける男と女の立場が以下のように表現されている。
「一族の男は誇り高く強情で、ほとんどが先天的に荒っぽく、酒を飲んではたがいに撃ち合ったり女房をぶん殴ったり、いとこや姪をはらませたりする。(中略)それから、女たちがいる。そう、女たちが。悲しげな目をした可憐な生き物だが、十二の年には純真無垢な愛らしい花、十七になると荒れ狂う捨て鉢な母親、三十を迎えるころには頬のこけたあきらめきった祖母」
そんな現実を踏まえるなら、17歳のリーが、クランの掟を破ったと思われる父親を探すことがいかに難しいかよくわかるはずだ。実際、タブーに触れようとする彼女には、手荒な警告が繰り返される。追いつめられた彼女は、弟と妹に狩猟の基本を伝授し、自ら軍隊に志願することで金を工面しようとする。それも叶わないとなると、命懸けでクランの長老に食らいつく。
そして、そんな彼女の姿に、これまでそれぞれに男と掟に従っていた女たちが密かに心を動かされていく。このドラマには、表には出ることのない(というよりも、当人たちでさえそれと意識することのないような)女同士のホモソーシャルな連帯関係が描き出されている。リーが経験する通過儀礼を忘れがたいものにしているのは、そんなヒルビリーのもうひとつのスピリットだといえる。
映画の冒頭でマリデス・シスコが歌っている<Missouri Waltz>は、こんな詞からはじまる。「この歌を聞いたのはミズーリで、幼かった頃、母のひざに抱かれて、老人は口ずさみ、バンジョーは鳴り響く、優しく低く」。そして、ラストでは、失われかけた絆を取り戻したリーと伯父のティアドロップ、そして彼らのクランのなかで次の世代へとバンジョーが引き継がれる。そのバンジョーは、もうひとつのスピリットを象徴しているように見える。
《参照/引用文献》
●『夢なき者たちの絆』マイクル・C・ホワイト 汀一弘訳(扶桑社ミステリー、2002年)
(初出:月刊「宝島」2011年11月号、若干の加筆)
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