マルクス・O・ローゼンミュラー 『命をつなぐバイオリン』 レビュー



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Review

ナチズムとサディズムのはざま

マルクス・O・ローゼンミュラー監督のドイツ映画『命をつなぐバイオリン』では、台頭するナチスがソ連に侵攻する時代を背景に、ユダヤ人のアブラーシャとラリッサ、ドイツ人のハンナという三人の少年少女の友情が描き出される。

映画の舞台は、1941年春、ソ連の支配下にあるウクライナのモルタヴァ。それぞれバイオリンとピアノで神童と呼ばれるアブラーシャとラリッサは、物語が始まった時点ですでにウクライナの共産党のプロパガンダに利用されている。

ドイツ人のハンナは、父親が経営するビール製造工場がウクライナにあるため、モルダヴァに暮らしている。彼女もバイオリンの才能に恵まれ、憧れの神童たちと次第に友情を育んでいく。だが、そんな三者の絆は、ドイツ軍の侵攻によって翻弄されていく。

この設定は興味深い。ドイツ軍侵攻の知らせが届くと、ポルタヴァ在住のドイツ人は一夜にして敵となり、ハンナの一家は危険に晒される。アブラーシャとラリッサの一家は、そんな彼らを森の廃屋にかくまう。


ところが、ドイツ軍がモルドヴァに押し寄せ、ナチスに支配されると、その立場が逆転する。今度は、ハンナの一家がユダヤ人の家族を酒蔵にかくまおうとする。そうした不条理な世界を、子供の目を通して描くスタンスは、マーク・ハーマン監督の『縞模様のパジャマの少年』を想起させるだろう。

だが後半、クライマックスに至る流れのなかで、作り手の視点がブレてしまう。クライマックスとその手前に置かれたエピソードを比較してみるとそれがわかるだろう。

クライマックスは、ヒムラーの誕生祝賀会における演奏になる。ナチスの大佐はハンナの父親に、アブラーシャとラリッサが完璧な演奏をすれば、強制収容所送りを免除すると告げる。命懸けの演奏は確かに異様な緊張を生み出すが、それはドラマの流れと深いところで噛み合っているとはいえない。

そのクライマックスの手前には、注目すべきエピソードがある。ハンナはアブラーシャと協力して、かくまわれているユダヤ人たちを逃がそうとする。その途中で、ドイツ軍に発見され、銃撃戦になる。ユダヤ人は犠牲を払ってドイツ兵を倒し、森に逃げようとするが、ハンナは戻らなければならない。

ユダヤ人はハンナに付き添うわけにはいかないので、すでに捕虜となったユダヤ人の労働を監視するドイツ兵のところに行き、自分がドイツ人だと告げるように指示する。だが、彼女は銃撃戦のショックで口がきけなくなっている。ドイツ兵の前でなにもいえない彼女は、捕虜のなかに加えられてしまう。

このエピソードには、まさに『縞模様のパジャマの少年』に通じる不条理と緊張がある。しかし、命懸けの演奏会を支配しているのは、ナチズムというよりは、ひとりの大佐のサディズムに近い。サディズムを生み出す要因がナチズムにあることは確かだが、これをナチズムが生み出す緊張ととらえることは、それまでのドラマが持っていた視野を著しく狭めてしまうことになるだろう。