ヤセミン・サムデレリ・インタビュー 『おじいちゃんの里帰り』:ユーモラスに綴られたトルコ系移民家族の物語
実体験が埋め込まれた監督姉妹の脚本
トルコ系ドイツ人の監督といえば、ファティ・アキンがすぐに思い出される。女性監督ヤセミン・サムデレリは、そのアキンと同じ1973年生まれのトルコ系二世だが、本国で7ヶ月のロングランとなった監督デビュー作『おじいちゃんの里帰り』では、アキンとはまた違った独自の視点でトルコ系移民の世界を描き出している。
彼女はコメディにこだわり、三世代の家族の過去・現在・未来を見つめていく。一家の主は、60年代半ばにトルコからドイツに渡り、がむしゃらに働いて家族を養い、齢を重ねて70代となったフセイン。そんな彼が里帰りを思いつき、それぞれに悩みを抱える家族がマイクロバスに乗り込み、故郷を目指す。さらに、家族の歴史の語り部ともいえる22歳の孫娘チャナンを媒介に挿入される過去の物語では、若きフセインがドイツに渡り、妻子を呼び寄せ、言葉も宗教も違う世界に激しく戸惑いながら根を下ろしていく。
現在と過去を交錯させながら未来を見据える脚本を手がけたのは、ヤセミンと彼女の実妹ネスリンのコンビだ。彼女たちが50回も書き直したという脚本から生まれた映画には、様々な実体験が埋め込まれている。
「映画にはたくさんのエピソードが出てきますが、私自身が体験したことや祖父母から聞いたこと、周囲のトルコ人から聞いた話などをもとに、フィクションを織り交ぜるかたちで盛り込んでいます。たとえば、クリスマスのエピソードは、妹と私が体験したことです。我が家でもやってみたいと思ったのですが、あのようにとても奇妙なクリスマスになってしまいました。あと、次男のモハメドがキリストの磔刑の像に動転し、怯えてしまうのも、私のおじが実際に体験したことです。おじは6歳の時にドイツに来たのですが、ミサの「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は~」の部分だけを聞かされていたために、本当にカニバリズムなのだと思い込んで心底恐れていたのです。祖父もだいぶ戸惑ったようです。イスラム教は偶像崇拝をしないので、十字架を拝んだり、触れてもいいということが理解できない。ただの木切れにしか見えなかったのです」
トルコ系移民家族像偏見の払拭
この映画は、構想から完成までに10年が費やされている。なぜそこまで時間がかかってしまったのだろうか。
「ドイツで劇場用映画を作る場合には、テレビ局と配給会社がパートナーになって、それが獲得できた段階で公的助成金が出るというパターンが一般的です。私たちは何年もかけていろいろなテレビ局に企画を持ち込んだのですが、断られるばかりで、これだけ時間がかかってしまいました。テーマよりもコメディであることが、なかなか受け入れてもらえませんでした。移民やドイツに住むトルコ系の話というと、どうしても劇的で深刻なドラマを期待されてしまうようで。たとえば、できちゃった結婚をしたいと言いだした娘が、家族全員の名誉を汚した者として殺されてしまう〝名誉の殺人〟のような題材であれば、すぐに受け入れられ、これだけの時間の間に3本くらい作品が撮れたかもしれません」
この理由は意外だった。普通に考えるなら、シリアスなドラマよりもコメディの方が受け入れられやすいように思えるのだが。
「ドイツでも同じですよ。他のテーマであれば、間違いなくコメディの方が受け入れられたはずです。でも、これまでずっとトルコ系移民をテーマにした映画といえば、人間ドラマや社会派ドラマというのが当たり前で、完全なステレオタイプになっていたんです。そういう偏見があったからなかなか受け入れられなかった。私と妹が目指していたのは、まさにそういう偏見を払拭することだったのです。たとえば、ジャーナリストのなかには、あなたはトルコ系の家庭に生まれた女性なのだから、抑圧された女性をテーマにしたものを撮るべきだと言う人もいました。でも、それをドイツ人に置き換えてみて、あなたはドイツ人なのだからナチスをテーマにした作品を撮らなければいけないなんて誰も言わないでしょう」
たとえば、ファティ・アキン監督の『愛より強く』に登場する23歳のヒロインは、自分を抑圧する家族から逃れようと自殺未遂を装ってクリニックに紛れ込み、確実に家を出るために偽装結婚という手段を選ぶ。ヤセミンは、そうした家族像や女性像を踏まえたうえで、22歳の孫娘チャナンを描いているように思える。なぜなら、彼女が内緒でイギリス人と付き合い、妊娠した事実を家族がどのように受け入れていくのかが、ひとつの見所になっているからだ。
「これは私が十代の頃のことですが、周囲からトルコ人の父親というのはみんな厳しくて、特に女性に対しては支配的で、権利を認めないのが当たり前なのでしょ、みたいに言われるのがすごく嫌でした。私の家族や私が知る他の家族はみな寛容でオープンでした。でも、うちの父親は違うと言っても信じてもらえない。トルコ人の男性はすべて厳しくて抑圧的だと思い込んでいるのです。確かに、名誉の殺人のような悲劇的な事件も実際に起こってはいるのですが、大半のトルコ系の家庭の現実を表わしているものではありません。それなのにトルコ人の家庭がみなそうだと思われてしまうことがすごく傷つく。普通の幸せな家庭もたくさんあるのを見せたいという思いがあり、こういうハッピーなコメディを作ることにしたのです」
トルコ系移民をテーマに描く意味
トルコ系移民をテーマにした映画やトルコ系の家族に対する固定観念や誤解を払拭するだけであれば、おそらく現代の家族を対象にするだけでも事足りただろう。しかし、第一世代からの家族の営みを見つめるこの映画には、それとは別な狙いもある。
「映画の出発点は、祖父母から昔のいろいろな話を聞いていて、それが楽しかったということです。愉快なエピソードがたくさんあって、嘆くような調子で話すことはなく、苦労はしたけど面白かったというように明るくとらえていた。そういう記憶を大切にしたいと思ったのがきっかけです。第一世代を受け入れた時には、ドイツ人の方も初めての経験で戸惑いもあっただろうし、トルコ人の方もなにもわからずに来ている。でも、そんな大変な状況を受け入れてなんとかうまくやっていこうという気持ちがあったのだと思います。たとえば、祖母が買い物で重い荷物を抱えていたら、見知らぬドイツ人が助けてくれて家まで運んでくれたという心温まる話がありました。そもそもトルコ人は頼まれたからやって来たのです。労働力を募集していて、ある特定の義務を果たすために来たわけですから。その原点に立ち返ろうと思ったということもあります」
この映画には、「われわれが呼んだのは労働者だったが、やってきたのは人間だった」というマックス・フリッシュの言葉が引用されている。ドイツでは外国人労働者は“ガストアルバイター”と呼ばれていた。ガストは客人を意味するが、トルコ系の人々は定住していった。そして不況が訪れれば軋轢も生じる。実際、ドイツでは70年代末から80年代にかけて外国人排斥運動が高まりを見せた。
「私が十代の頃に、ドイツの政治的、経済的な状況が変わり、外国人労働者やその家族、次の世代に対する姿勢とか扱い方が緊張感を帯びるようになりました。その頃、私はドイツで受け入れられてないのではないかと思うことがありました。本当はそこで育つべきではないのに育ってしまったという意識を持たざるをえないような状況でした。そして受け入れられていないとそれに反発する心が芽生えてきます。それは決して幸せな状況ではありませんでした。でも、もっと大人になって家族の物語を知り、さらに家族という小さな世界からトルコ社会全体でこれまで積み重ねられてきた歴史を知るにつれて、ドイツ人がどう思っているかは重要ではなく、私たちの祖父の世代がなにを成し遂げたか、家族のために働き、これだけのものを達成し、それに相応しい権利を手に入れたことがすごく大事なのだと認識するようになりました。それで、自分がドイツ社会の一員であることは紛れもない事実であって、それも含めていまのドイツ社会があるのだという意識を強く持てるようになったのです。ドイツ政府や教育に携わる人たちは、若い世代に自分が社会の一員であることは当然のことなのだという気持ちを与える必要があります。そういう気持ちを持てることがなによりも重要なのだと私は思います」
そして最後に、若きフセインがドイツに入国する映画の冒頭の場面を振り返っておきたい。それは、移民の総数が歴史的な頂点に達する日にあたっていて、フセインは列に並ぶときに鉢合わせした人物に順番を譲った結果、100万1人目の移民労働者になる。脚光を浴びることになった100万人目の人物の名前は、アルマンド・ロドリゲスで、トルコ人ではない。この場面は、トルコ人に限らないたくさんの物語がそこにあり、そのひとつがこれから語られることを巧みに示唆している。
「まさに私たちがとても大切に考えているのは一人一人の物語を語るということです。たとえばいま難民というと、ひとくくりに難民として扱われてしまうことが多いと思います。もはや個人として扱われることがありません。本当はその人にはその人の歴史と物語があって、アフリカのある特定の地域からやって来て、こういう言葉を話し、こういう体験をしてきた人が難民申請をしているのに、アフリカの難民としてひとくくりにされてしまう。それは彼らにとって非常に傷つくことだと思います。同じようにトルコ人の移民たちもトルコから来た外国人労働者という枠でくくられてしまえば、とても傷つきます。そうではなくそれぞれに物語があるということを主観的に描きたいと思い、たくさんの物語のひとつとしてこの家族を取り上げ、彼らの物語を描いたのです」
(初出:「キネマ旬報」2013年12月上旬号)