ショーン・ダーキン 『マーサ、あるいはマーシー・メイ』 レビュー
現実を単純化した二元論的な世界に囚われてしまうことの恐怖
(レビューをお読みになるまえに『マーサ、あるいはマーシー・メイ』試写室日記をチェックされると、より盛り上がるかもしれません。このレビューが、あちらで提示したヒントの答えになっているともいえますので)
アメリカの新鋭ショーン・ダーキンの長編デビュー作『マーサ、あるいはマーシー・メイ』は、ヒロインのマーサがカルト集団の農場を密かに抜け出すところから始まる。森を抜け、町に出た彼女は、取り乱しながら姉に電話する。
結婚したばかりの姉は、建築関係の仕事をする夫と休暇を過ごしているところで、マーサは湖畔の豪華な貸別荘に迎えられる。しかし、彼女の精神状態は不安定で、現在とマーシー・メイという別の名前で過ごした過去、現実と幻想の区別がつかなくなっていく。
この映画はそんなヒロインの視点に立ち、緻密にして巧妙な編集によって現在のドラマと過去の体験の境界が曖昧にされている。その映像は確かに効果的で、私たち観客も混乱させられる。一般的に言えばこれは、マインド・コントロールの恐ろしさを生々しく描き出しているということになるはずだ。
だが、「普通」と「異常」という二つの世界があって、その境界が崩れていく映画であれば、筆者はさほど興味をそそられなかっただろう。