スティーヴ・マックィーン 『それでも夜は明ける』 レビュー

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檻に囚われた人間

イギリス出身の鬼才スティーヴ・マックィーンの映画を観ることは、主人公の目線に立って世界を体験することだといえる。

たとえば、前作『SHAME-シェイム-』では、私たちは冒頭からセックス依存症の主人公ブランドンの日常に引き込まれる。彼は仕事以外の時間をすべてセックスに注ぎ込む。自宅にデリヘル嬢を呼び、アダルトサイトを漁り、バーで出会った女と真夜中の空き地で交わり、地下鉄の車内で思わせぶりな仕草を見せる女をホームまで追いかける。だが、彼の自宅に妹が転がり込んできたことで、セックス中心に回ってきた世界はバランスを失っていく。この映画では、なぜ彼が依存症になったのかは明らかにされない。

新作『それでも夜は明ける』では、そんなマックィーンのアプローチがさらに際立つ。映画のもとになっているのは1853年に出版されたソロモン・ノーサップの回顧録だが、その原作と対比してみると映画の独自の視点が明確になるだろう。

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パブロ・ベルヘル 『ブランカニエベス』 レビュー

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映像と音楽と題材が三位一体となった貴種流離譚

モノクロ&サイレントで撮られたパブロ・ベルヘル監督の『ブランカニエベス』は、闘牛の場面から始まる。それを観ながら思い出したことがある。だいぶ前にスペイン文化について調べ物をしたときに、印象に残ったことのひとつが闘牛における音楽や音の役割だった。それは、ギャリー・マーヴィンの『闘牛 スペイン文化の華』のなかで説明されていた。

たとえば、闘牛を仕切る座長の合図で、楽隊がパソドブレ(闘牛と伝統的に結びついた二拍子のマーチ風舞曲)の演奏を始め、最初の牛が放されるまで続けられるというのは、容易に想像できる音楽の使い方である。しかし、音楽の役割はそれだけではない。座長の合図は、色のついたハンカチで視覚的に表現され、それと同時に、トランペットでも通訳される。さらに以下のような役割も担う。

音楽はまた、アンビエンテ(雰囲気)を作りだし、アリーナの演技に触発された感情をさらに強める働きをする。音楽だけである程度この気分を作りだすことがある。マタドールは音楽に身を委ねることがあるからである」「アリーナの演技が音楽が演奏されるに値すると思うのに楽隊が何もしないと、観客はすぐに文句をつける

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ダニス・タノヴィッチ 『鉄くず拾いの物語』 レビュー

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洞察と象徴を通して浮き彫りにされるロマの一家の現実

ダニス・タノヴィッチ監督の『鉄くず拾いの物語』は、ボスニア・ヘルツェゴヴィナに暮らすロマの一家に起こった出来事に基づいている。妊娠中の妻セナダが激しい腹痛に襲われ、危険な状態であることがわかるが、保険証がなく、高額な費用を払えないために、病院から手術を拒否される。夫のナジフはそんな妻の命を救い、家族を守るために奔走する。この映画ではそんな実話が、ナジフとセナダという当事者を起用して描き出される。

タノヴィッチ監督は新聞でこの出来事を知り、「世間に訴えなければいけない」と考え、映画にした。そういう意味ではこれは、社会派的な告発の映画といえる。しかし、当事者を起用し、事実をリアルに再現するだけでは、多くの人の心を動かすような作品にはならなかっただろう。

この映画で筆者がまず注目したいのはロマの一家の世界だ。タノヴィッチ監督自身も認めているし、ドラマを観てもわかるが、ナジフとセナダは必ずしもロマだから差別されるわけではない。しかしだからといって、彼らのことを漠然と被差別民や弱者ととらえて向き合えば、自ずと焦点がぼやける。たとえロマをよく知らなくても、目の前に存在する者の世界を見極めるような洞察が求められる。

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ヘンリー=アレックス・ルビン 『ディス/コネクト』 レビュー

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現代における他者との関係を炙り出すネット社会版『クラッシュ』

ヘンリー=アレックス・ルビンが監督した『ディス/コネクト』を観て、すぐに思い出すのはポール・ハギスの『クラッシュ』だ。クルマ社会における人と人の距離に着目することで、複数の人物が入り組むポリフォニック(多声的)な物語を巧みに構築していくのが『クラッシュ』であるとするならば、この映画はそのネット社会版といえる。

『クラッシュ』では、クルマをめぐる様々なトラブルを起点として、人種や階層に関わる溝が浮かび上がり、軋轢が生じ、悲劇に発展していく。登場人物たちは、目に見える他者の表層に対する先入観や偏見に振り回されることになる。

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アブデラティフ・ケシシュ 『アデル、ブルーは熱い色』 レビュー



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階層と成長期に培われる価値観、食と集団をめぐるドラマに見るケシシュの世界

カンヌ国際映画祭でパルムドールに輝いたアブデラティフ・ケシシュ監督の『アデル、ブルーは熱い色』は3時間の長編だが、物語そのものはシンプルだ。

高校生のアデルは、道ですれ違ったブルーの髪の女に一瞬で心を奪われる。再会を果たした彼女は、画家を目指す美学生エマにのめり込んでいく。数年後、夢を叶えて幼稚園の先生になったアデルは、画家になったエマのモデルをつとめながら彼女と生活を共にしているが、やがて破局が訪れる。

チュニジアで生まれ、南仏ニースで育ったケシシュは、マグレブ系移民を作品に登場させても、国家や文化をめぐる単純な二元論に落とし込むのではなく、共通性を掘り下げ、より普遍的な世界を切り拓いてきた。

そうした姿勢は、新作にも引き継がれている。独自の美学に貫かれたラブシーンが鮮烈な印象を残す“ガール・ミーツ・ガール”の物語ではあるが、同性愛がテーマになっているわけではない。

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